『リリース』
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さよなら、ベグデル――『リリース』刊行エッセイ 古谷田奈月
[レビュアー] 古谷田奈月
ある小説について、友人が、「すごく優れた作品だと思うけど、活躍する登場人物に女性が一人もいないのがね」と言った。
いないのがなんなのだ、と私は聞かなかった。もちろん、いないのがなんなのか、わかっていた。日本人のジェンダー感覚は旧態依然として世界的に見ればかなり後進的だと言われているが、表現の分野に籍を置いていると、無頓着でいるほうが難しい。
同じことが気になっていた私は、友人の意見に反論しなかった。しかしもしその小説に女性が一人、男性と対等に渡り合う、彼らとの性差などないように描かれていながら女性であることが実は最重要視されている一人が投入されたとしたら、私は、絶対にその一人にはなりたくないな、とも思った。それでは本質的に「ダサピンク現象」と同じだ。女であるという理由で特定の色を、思想を、意味を負わされる存在。そのとき、そこに描かれるのは個ではない。
ベクデル・テストというものがある。創作物のジェンダーバイアスを測る基準となるテストで、「最低でも二人の女性が登場するか」「女性同士の会話があるか」「その会話は男性に関する話題以外のものか」という項から成り、これらの条件をすべて満たしていることが望ましいとされている。まるでテーマ小説の応募要項のようだと、初めて知ったときに思った。それからひどく悲しくなった。最低でも二人登場させられるうちの一人になりたくない、とそのときにも思ったが、その一人、そしてもう一人を、書きたくないとも思った。私はただ、人間を書きたかった。
今になって思えば、私の感じていたことは、さほど罰当たりでもなかったのかもしれない。でもその時期、私は自分を罪人のように思っていた。ベクデル・テストにパスする作品しか書いてはいけない気がしたし、女性が活躍しない作品は断じなくてはいけない気がしたし、ヴァージニア・ウルフは全作読んでいなければいけない気がした(敬愛するヴァージニア、こんなかたちで引き合いに出してごめんなさい)。でも実際に私がしていたのは、「ある小説」と同じく偶然男性ばかり登場することになった自作の小説を抱え、じっと佇み、この違和感、わだかまり、疑問、そして怒りが、胸中に確かに根付くのを待つことだけだった。
あるとき、ふと気が軽くなったのは、ベクデル・テストを作ったとされるアリソン・ベクデルという漫画家が、例のテストはちょっとした冗談のつもりだったと言っていると知ったときだった。一人の漫画家によるジョークが、あまりにも気が利いていたために後年の批評家たちに生真面目に解釈されたのかもしれない。そう考えたとき、それほどユーモアのある平等主義者なら間違いなくこの状況を笑い、またベクデル・テストがなくなることを願っている可能性さえあると、私はようやくそのことに思い至った。ベクデルが望んだのはベクデル・テストをパスした物語の数々ではなく、ジェンダーバイアス測定というしがらみから解放された物語が、当たり前に存在する世界なのではないだろうか。
私はまだ罪人の気持ちでいたが、ベクデル・テストにどう対応するかは、それでおおよそ定まった。違和感、わだかまり、疑問、怒りが、私の内部で人のかたちを取り始めた。偶然男性ばかり登場することになった小説は《未来》のフォルダに入れ、いくらかは告解のつもりで、『リリース』を執筆し始めた。