古くて新しい問題 太宰から若い作家たちに繋がる「自意識」という糸

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古くて新しい問題 太宰から若い作家たちに繋がる「自意識」という糸

[レビュアー] 伊藤氏貴(明治大学文学部准教授、文芸評論家)

 「宮原昭夫」という一つの固有名の下に編まれた四部からなる評論集は、しかし、そのなかに作家論もあれば、評論的要素を含んだ私小説もあり、また書かれた時期も優に半世紀に亘り、ここに内容面から見たなんらかのまとまりを探そうとすれば、副題になっている「自意識劇の変貌」というのがやはり一番ふさわしいだろう。
 これは第一部のタイトルともなっているが、「自意識」の問題が、綿矢りさ、白岩玄、金原ひとみという二〇〇〇年代前半に相継いでデビューした作家たちに見られる共通項だという。全くもってそのとおりだと思う。さらに、彼らの問題意識が太宰のそれ、とりわけ『人間失格』の大庭葉蔵のそれを受け継いでいるということが「大庭葉蔵の曾孫たち」という冒頭の章で論じられる。
 第二部は、村田紗耶香の初期から『コンビニ人間』に至るまでを追った作家作品論になっている。帯にある「作者にも聞こえなかった作品の「音」に辿りついている、その蛇のような真摯さが、私には恐ろしいのです」という村田自身の言葉通り、一つひとつの作品を非常に丹念に解剖していく。
 順序を入れ替えて先に第四部について言えば、石原慎太郎と大江健三郎という、宮原とほぼ同世代の作家たちの作家論であり、一九六三年に発表されたものということもあり、まだ二十代、三十代だった両作家たちが当時どう見られていたのかが窺える。
 出色はなにより第三部。「小説家の私事」と題する小説作品であり、はじめのうちはこれがなぜ「評論集」に入っているのか首を傾げるばかりだったが、しばらく読み進めるうちに腑に落ちる。ある私小説家とその妻との生活が、夫がそれを小説の中に書き込むことにより少しずつ変質し崩れてゆくさまは、「私小説」というものに対する一種の批評意識を否が応でも炙り出さずにはおかない。一九七〇年に書かれたものの再録だということだが、この問題は古くて新しい。
 そもそも「私小説」とは何か、という問に答えるのは非常に難しい。作家の日常をそのまま描いたものという辞書的な定義がある作品に当てはまるかどうかは、作品そのものの中からは判断しえない。これは原理的な問題である。それが作者の身に起きたことかどうかを確かめるには作品以外の情報から裏を取らなければならないからだ。
 しかしそれでも、「私小説臭」のようなものが内側から漂い出てくる作品はある。それは、登場人物たちが、自分たちの振る舞いがいずれ書かれてしまうことを意識しながら生活している作品である。いつも誰かに覗き見られているかのような意識を持ちながら振る舞うぎこちなさこそが「私小説臭」にほかならないが、「私小説の私事」は、まさしくこの自意識そのものを主題化した作品だと言える。
 そして第一部の綿矢や白岩の主人公たちは、作家でこそないものの、絶えず誰かに覗き見られているかのような自意識を持ちつつ生活する者どもである。大庭葉蔵もそうであったように、その意味で、現代の若者たちは過剰な自意識の下で、演技的にふるまうことを強いられる私小説作家たちのようであると言えるかもしれない。それが「空気を読む」ことであったり「キャラを立てる」ことであったりすることの内実だろう。「変貌」はしているが、「自意識」という糸は太宰から若い作家たちに繋がり、さらには日本の若者たち全体を蜘蛛の糸のように絡めとっている。宮原が追い続けた問題の射程範囲はますます広がるばかりだ。

週刊読書人
2017年4月28日号(第3187号) 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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