『やめるときも、すこやかなるときも』
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結婚式の誓いの言葉が腑に落ちる、温かい物語
[レビュアー] 佐久間文子(文芸ジャーナリスト)
やめるときも、すこやかなるときも。結婚式の誓いとして、何度となく耳にしたことのあるこの言葉がいまはすっと腑に落ち、温かいものに心が満たされている。
女癖が悪い、と周囲にみなされている壱晴(いちはる)と、男性経験がなく、必死さが「重い」と恋人にふられたことのある桜子(さくらこ)。ともに三十二歳の二人は、「軽い」壱晴と「重い」桜子で一見正反対のようだが、不器用さがとてもよく似ている。相手をまっすぐに強く求める気持ちも。
毎年十二月になると、壱晴は声が出なくなる。高校生のときに交通事故で恋人が死んだことが原因の「記念日反応」だとわかっているが、つらい記憶には蓋をして、だれにも話さずこれまで生きてきた。
家具職人である壱晴のパンフレット制作を請け負った桜子が、工房を訪ねて彼と「再会」する。実はこの二人、知人の結婚式で知り合っているのだが、桜子にとっては消してしまいたい出会いを壱晴は記憶すらしておらず、桜子を一層落ち込ませる。だが、打ち合わせの途中に壱晴の声が突然、出なくなったことで、二人の距離は縮まっていく。暴走気味の桜子が投げる「豪速球」を意外にも壱晴が受け止めて、二人の交際は始まる。
壱晴が桜子に惹かれたのは、家庭環境も含めて桜子がどこか死んだ恋人を思い出させるからで、彼女に出会ったことで壱晴は初めて自分の過去に向き合おうとする。傷を抱えて生きる壱晴に惹かれた桜子だが、その記憶の重さを知るにつけ、立ちすくみ、後ずさる。
嗅覚が、効果的に描写される。壱晴のまとう木の香り。桜子がのこすジャスミンの香り。線香の香りや、花の香り。プルーストではないが、香りは過去の記憶を呼び起こし、その場にいない人のことを鮮やかに思い出させる。くり返し、相手の香りが懐しく思い浮かぶのは、知らないうちに、その人に心をとらえられているということなのだろう。