ありきたりな言葉への疑い そして言葉への自由
[レビュアー] 都甲幸治(翻訳家・早稲田大学教授)
男には見えないものがある。たとえば、木嶋佳苗はミュールも知らない男たちに裁かれている、という北原みのりの言葉を金井は引く。代わりに彼らが木嶋に与えるのは、女事務員、という時代錯誤な言葉だ。
どうしてこうなるのか。インテリ男性である自分たちにこそ世界が見えている、という思い上がりゆえだろう。だから金井は徹底して彼らの死角を突く。そのことで、日本語を使う権利は果たして誰にあるのかを問い続ける。
彼女の戦略はこうだ。遠く少女時代の身体感覚に徹底して寄り添うこと。だから薄荷糖のせいで口の中がスースーし、アイスクリームはジャリジャリする。小雨のくだりがいい。「潮の匂いと塩のまじった雨の細かな粒が顔や体にあたるので、息のつまるような感じが」する。確かにそうだ。いつしか読者も自分が体験した気になり、書き手とともに的確な表現を探しだす。しかも読んでいるうちに、中国からの引き揚げや戦後の暮らしが浮かび上がってくる。
ここにあるのは、ありきたりな言葉への執拗な疑いだ。だから本書では括弧やダッシュが多用され、本文が一つの物語にまとまりそうになるやいなや、反論や脱線が執拗に絡みついてくる。煙草の煙は紫煙と言うけど、紫色だと思ったことはない。モノクロ映画なのに、鮮やかな色彩がそこにある。こうした批評的な運動そのものがこの小説を形作っている。
『カストロの尻』という題名自体が言葉への疑いを示している。金粉ダンサーである愛人のもとに逃げた洋服問屋の男性は、見事なまでに漢字を読み間違える。けれども、たとえば「渦中」を「うずちゅう」と読むことで、彼の陥った苦境がよりリアルに表現されはしまいか。あるいは、「尼」を「尻」と入れ替えれば、そこに少女たちの盛り上がる尻が呼び覚まされるだろう。言葉からの、そして言葉への自由。金井が半世紀にわたって求め続けているのはこれだ。