【ニューエンタメ書評】鳴神響一『能舞台の赤光 多田文治郎推理帖』三國青葉『心花堂手習ごよみ』ほか

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  • 慶次郎、北へ 新会津陣物語
  • 能舞台の赤光 多田文治郎推理帖
  • 本懐
  • 白き糸の道
  • 心花堂手習ごよみ

ニューエンタメ書評

[レビュアー] 末國善己(文芸評論家)

 本格的な夏到来ですね。小説界も熱く盛り上がっています。
 暑さを吹き飛ばし、夢中になれる力作8点をご紹介します。

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 文庫書き下ろしの歴史時代小説は、江戸を舞台にした捕物帳や剣豪小説、人情ものなどが中心だが、昨年刊行され話題となった簑輪諒『最低の軍師』(祥伝社文庫)のような歴史小説も増えている。佐々木功『慶次郎、北へ 新会津陣物語』(ハルキ文庫)も、かぶき者として人気を集める武将・前田慶次郎の晩年を描く重厚な歴史小説である。

 関ヶ原の合戦の直前、慶次郎が、京で親交を深めた直江兼続の主君で会津を治める上杉景勝に仕えたのは有名だろう。兼続は、徳川家康を会津に引き付け、その間に上方で盟友の石田三成が挙兵、両者で挟撃して家康を仕留める謀略を進めたとの説がある。著者は、策士の兼続はこれを上回る戦略を立てていたとし、慶次郎は、兼続が己の野望を剥き出しにしたところに「侠」を見て、景勝の計画を支える決意を固めたとするなど、全編に独自の解釈があふれている。そのため結果を知っていても、最後までスリリングな展開が楽しめる。

 ただ著者は、慶次郎たちの華々しい活躍だけを描いているのではない。慶次郎は、自分を会津に招いてくれた安田順易の頼みで、養子の六十郎を従者にする。慶次郎は、まだ元服を済ませておらず武功に憧れている六十郎に、武士が始める合戦がどれほど領民を苦しめているかを見せる。

 かぶき者らしく常識にとらわれない慶次郎は、上に立つ者は民に塗炭の苦しみを強いてでも進まなければならない時もあるが、自分の判断で命を落とす人間がいる現実を想像したり、自分の掲げる正義を疑ってかかる相対的な視点を持っていなければならないと考える。こうした“情”や“柔軟性”を持った人間こそが、慶次郎の認める「侠」なのだ。本書を読むと、今の世に「侠」はいるのかと思わずにはいられない。

 鳴神響一『能舞台の赤光』(幻冬舎文庫)は、〈多田文治郎推理帖〉シリーズの第二弾。陰惨な殺人が連続した派手な前作とは一転、今回は、史実でも能楽好きだった黒田継高が江戸上屋敷で主催した観能会に招かれた商人が、公演の最中に、衆人環視のもとで殺される不可解な謎が描かれている。

 そのため地味に思えるかもしれないが、当日の役者や警備の武士、観客の動きを丹念に調べたり、様々な動機を掘り起こしたりして文治郎がロジカルに真相に迫るところは、王道的な本格ミステリである。周到な伏線から導き出される驚愕のどんでん返しは、江戸時代の、能楽の世界でなければ成立しない。そのリアリティを実在の人物を使って補強したところも見事で、前作に勝るとも劣らない切れ味だった。

 時代小説では、武士が責任を取ったり、諫言したり、無実を証明したりするために行う切腹がよく描かれる。この切腹そのものを題材にした上田秀人『本懐』(光文社)は、今川義元、織田信長、西郷隆盛など、戦国時代から明治初期までの武士たちが、何を考え腹を切ったのかに迫っている。

 収録の六作は、いずれも斬新な解釈で英傑が切腹するまでの想いをすくい取っている。その中でも、武家の役割は家を存続させることにあると考える大石内蔵助が、息子の主税も切腹しなければならなくなる討ち入りを行った矛盾から、親子の深い情愛と自分たちを切腹に追い込んだ社会システムへの怒りを浮かび上がらせる「親心腹」、奥絵師の狩野融川が切腹した理由を描いた「持替腹」は特に出色だ。著者は、組織が個人を圧殺する危険性を指摘する「親心腹」、革新性より横並びを重んじる体質に迫る「持替腹」を通して、江戸時代も現代も変わらない日本的なメンタリティーの負の側面を暴いているので、暗澹たる気分になるかもしれない。

 伝奇時代小説を得意としてきた澤見彰が、超自然の要素を排し新境地を開いたのが『白き糸の道』(新潮社)である。

 養蚕が盛んな村で生まれたお糸は、十歳の時に、蚕種商の中村善右衛門に算術の手ほどきを受ける。やがて奉公へ出たお糸は病に倒れた善右衛門と再会、医師が持っていた体温計に興味を持つ。体温計のように気温が計れる機械があれば、経験とカンに頼っていた養蚕の温度管理が楽になる。お糸からこの話を聞いた善右衛門は、製造法を調べるといってお糸と別れるが、江戸で温度計を作り始める。善右衛門と一緒に温度計が作りたいお糸は、家出同然に江戸に向かう。

 江戸で善右衛門と合流したお糸が、苦労に苦労を重ねて温度計を完成させるまでが前半の山場となっている。江戸で妻子ある男性の子供を身ごもったお糸は、故郷に帰って出産する。ただ江戸で大きな仕事を成し遂げたお糸は、小さな村で子育てをしながら十年一日のように養蚕をする生活には満足できず、母親と娘の反対を押し切って再び村を出る。

 寺子屋に通うとからかわれ、都会に出るにも苦労し、ようやく打ち込むべき仕事を見つけた矢先に妊娠、子育てが落ちつき仕事に復帰しようとすれば家族に反対されるお糸は、働きながら子育てをしている現代の女性が、人生の節目で強いられる難しい決断をすべて経験している。それだけに、同じ境遇の読者は共感が大きいだろうし、常にチャレンジを続けるお糸のパワフルさには、勇気がもらえるはずだ。

 女の子だけが通う手習い所を舞台にした三國青葉『心花堂手習ごよみ』(ハルキ文庫)も、働く女性が直面する現実を鮮やかに切り取っている。旗本の三枝家で祐筆を務めていたが、倒れた伯母に代わり手習い所を継いだ初瀬は、いまの仕事に満足していない若い世代そのものである。仕事への意欲がない時はすべてが悪い方に転がることもあるので、心構えも技術もないまま師匠になった初瀬が、自分をなめている娘を叱ったところ、その娘を筆頭に次々と子供たちが辞めていく冒頭部は、身につまされる読者も多いはずだ。初瀬が逆境からスタートしただけに、子供たちが巻き込まれた事件に挑むなどして、少しずつ手習い所を再建する展開は本当に清々しい。仕事に加え、恋愛問題でも頭を悩ませる初瀬の今後がどのようになるのか。続編の刊行を楽しみに待ちたい。

 ユーモラスな作品も多い西條奈加だが、新作の『無暁の鈴』(光文社)は重くシリアスな物語となっている。

 武家の庶子で寺に預けられた久斎は、兄弟子にいじめられながらも修行していたが、村の娘と親しくなったことで、寺が貧しい人を救うどころか搾取している現実を知る。絶望して寺を出た久斎は、小悪党で同じ年の少年・万吉と出会う。万吉に名を聞かれた久斎は、絶望した自分に夜明けはこないとの意味を込め無暁と名乗る。江戸に出た二人は任侠の世界に入り、親分からも一目置かれる存在になる。だが敵組織への復讐で人を殺めた無暁は、八丈島に流されてしまう。

 何も悪いことはしていない無暁が、次々と転落していく展開は、往年の大映ドラマか昼メロを見ているようなせつなさがある。ただ無力で等身大の存在だからこそ、人を殺めた罪悪感、流人ゆえの差別と偏見、何より八丈島で飢えに苦しむ極限状態の中で改心した無暁が、信仰とは何か、救済とは何かを模索する展開には、心が揺さぶられるのではないか。

 その意味で本書は宗教色が強い小説だが、無暁の苦悩は、社会の矛盾、貧困にあえぐ人たちを前に小さな個人は何ができるのかとの普遍的な問い掛けでもある。無暁が見た地獄絵図は現代とも無縁ではないので、読者は無暁の言動を自分に重ねて考えることになるだろう。逆境にあっても、安易に死を求めてはいけないとのメッセージは、強く印象に残る。

 河治和香『がいなもん 松浦武四郎一代』(小学館)は、「北海道」の名付け親とされる松浦武四郎の一代記である。

 物語は、依頼した絵をなかなか完成させない河鍋暁斎のもとへ足繁く催促にくる晩年の武四郎が、暁斎の娘・豊(号・暁翠)に昔語りをすることで進む。武四郎は、ホラとしか思えないエピソードをユーモラスに語るが、これらがすべて史実だというのだから驚かされる。この歴史小説の部分だけでも面白いのに、絵師を聞き役にすることで、幕末から維新期に活躍した芸術家たちの知られざる一面を描き、登場人物が美味しそうな料理を食べながら話をすることで、現代まで続く名店の意外な歴史を掘り起こすなど、芸術小説、料理ものとしても楽しめるようになっているのだ。特に風月堂が御庭番に繋がっていた話や、武四郎の義兄にあたる陶芸家の三浦乾也が、造船技術を学び仙台藩の依頼で軍艦を造った話などは、かなりの歴史通でも初めて目にするのではないか。

 武四郎は、蝦夷を治める松前藩では、アイヌの男たちが労働に駆り出され、女たちが和人の慰み者になっている現実を告発する書物を書いたため、松前藩士から命を狙われる。和人は、文字を持たず、刺青など独特の風習を持つアイヌを劣った民族として差別したが、武四郎は、ありとあらゆる自然に神が宿っていると考えたり、祖先の霊に供物を捧げ祈ったりするアイヌは、和人と変わらぬ文化と信仰を持っていると考え、それを和人に認めさせるために奔走する。

 多文化共生の重要性を指摘した武四郎の先駆性は、現代の日本で異なる人種、異なる民族への差別と憎悪が渦巻いているだけに、重く受け止める必要がある。

 第五十七回メフィスト賞を受賞した黒澤いづみ『人間に向いてない』(講談社)は、同賞に相応しい異色作である。

 一夜で人間を異形の姿に変える「異形性変異症候群」が、静かに広がっていた。だが患者は引きこもりやニートの若者ばかりなので、政府は切り捨てを決める。この奇病の罹患者は死亡したものとして扱い、一切の人権が適用されなくなったのだ。高校の人間関係でつまずいてから引きこもっていた優一が、異形のモノに変じた。父の勲夫はすぐに優一を処分しようとするが、母の美晴はどうにかして守ろうとする。

 異形の姿になった若者が、親からも、社会からも見捨てられているとの設定は、社会的な弱者を徹底して叩き、家庭が安住の地でなくなりつつある現代社会のグロテスクなメタファーとして読める。優一を守ることで、大多数が支持する社会のルールに抗う美晴は、正義や常識が果たして正しいのかを改めて考える機会を与えてくれるのである。

角川春樹事務所 ランティエ
2018年8月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

角川春樹事務所

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