ロシアでの中古日本車ブームを背景にかの地の社会情勢を描く

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右ハンドル

『右ハンドル』

著者
ワシーリイ・アフチェンコ [著]/河尾基 [訳]
出版社
群像社
ISBN
9784903619880
発売日
2018/05/31
価格
2,200円(税込)

ロシアでの中古日本車ブームを背景にかの地の社会情勢を描く

[レビュアー] 鴻巣友季子(翻訳家、エッセイスト)

 今世紀の初頭、日本の中古車の最大“輸入”国はロシアだった。「ニューヨーク・タイムズ」のロシア極東特派員によれば、大半は日本に来港した漁船や貨物船が車を積みこんでいった。悪路でも高性能を発揮し長持ちの日本車は大人気となり、一時はパトカーや「北方領土を返せ!」と書かれた車まで街を走っていたと。

『右ハンドル』はソ連崩壊直前からウラジオストクにどっと流入した日本産中古車について、マニアックかつフェティッシュに綴りながら、この四半世紀の現代ロシアの社会情勢を映しだす。右ハンドルの愛車に「お前」と語りかける独白で始まり、車を「日本娘(ヤポンカ)」と擬人化し、エロティックな意味をダブルミーニングで持たせるあたりは、好みが分かれるかもしれないが、ともあれ日本の中古車は、ロシアの中流以下の人々に欠かせない一文化となった。

 車の日本名とロシアでの俗称をめぐる章など、車好きには堪らないのでは。ロシアの車マニアは「買う」ではなく「取る」と言う。「ゼリョンカでイタチを取ってきたよ」などと。イタチはトヨタ・ハリアーのこと。チェイサーはやかん、ソアラはサンマ、セリカはツェルカ(処女)。

 やがて「私」は「彼女の中」にいないと不安になり、その性的嗜好は人間の女性ではなく、自動車の曲線に向けられるようになる。しかし中古日本車ブームは二〇〇二年、関税の大幅引き上げや規制の強化により、一つの区切りを迎えた。その後の「右ハンドル」閉め出し政策で、二〇〇九年にはロシアへの日本車の輸出台数は激減。国民は反ブルジョワを旗印に抵抗し、官僚は庶民が中古を買う社会構造自体がブルジョワ世界に取り込まれている証左だと反論。

 語り手は愛車に話しかける。「未来はない。現在を楽しもう。さあ、キーを挿して点火するよ。そうしたら二人とも気分がよくなる」おお、ロシア版キヨシローか!? 秀逸なドキュメンタリー小説である。

新潮社 週刊新潮
2018年7月12日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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