『平場の月』
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普通の場所で生きるふたりの不安定だからこそ美しい愛
[レビュアー] 石井千湖(書評家)
年収三百五十万円弱の会社員と、年収二百万円に届かないパートタイマー。平場―つまり、普通の場所で生きている五十歳の男女が恋に落ちる。華やかさはないのに心奪われる小説だ。
印刷会社に勤務する青砥健将(あおとけんしょう)が、須藤葉子の訃報を聞き、花屋へ行く場面で物語は始まる。青砥は須藤と三十五年ぶりに再会した日のことを語りだす。〈病院だったんだ。昼過ぎだったんだ。おれ腹がすいて、おにぎり喰(く)おうと思ったんだ〉という独白のリズムが、青砥という男の無骨な魅力を際立たせている。
胃の内視鏡検査のために病院を訪れた青砥は、売店で働く須藤を見つけた。かつては結婚していたがどちらも今は独り身。ささやかな秘密を共有する元同級生という間柄のふたりは〈どうってことない話をして、そのとき、その場しのぎでも『ちょうどよくしあわせ』になって、お互いの屈託をこっそり逃す〉ために〈互助会〉を結成する。この互助会のやりとりがすごくいい。
例えば、たまたま入ろうとした店がいっぱいで、須藤が青砥を自分のアパートに誘うくだり。〈五十でそのノリはいろいろキツいって〉と尻込みする青砥に対して、須藤は〈月に何度も外食するのは厳しいんだよ〉と懐事情を率直に打ち明けるのだ。多く出してもらうのは気が引けるという須藤の言葉を青砥も理解して受け入れる。尊大にも卑屈にもならず、きちんと相手の話を聞き、自分の意思をできるかぎり正確に伝える対等な関係に憧れてしまう。
それぞれの過去の傷も知った上で〈弾力のある好意〉を抱くようになったふたりは、須藤が大腸がんを宣告されたことをきっかけに恋人同士になるが……。冒頭で明かされている通り、彼らはずっと一緒にはいられない。お互い嫌いになったわけではないのに。ちょうどいい幸せがたった一言で崩れていく。不安定だからこそ美しい愛が描かれている。