【文庫双六】光太郎と賢治の“意外な接点”――梯久美子

レビュー

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光太郎と賢治の“意外な接点”

[レビュアー] 梯久美子(ノンフィクション作家)

【前回の文庫双六】『智恵子抄』の舞台となった房総半島の“淋しい漁村”――川本三郎
https://www.bookbang.jp/review/article/564316

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 高村光太郎が詩集『智恵子抄』を出版した1941年は、太平洋戦争が始まった年である。真珠湾攻撃のニュースに高揚し、〈この日世界の歴史あらたまる。アングロサクソンの主権、この日東亜の陸と海とに否定さる〉(「十二月八日」)と詠ったことはよく知られている。

 45年4月の空襲で東京のアトリエが焼失、光太郎は岩手県花巻町(現在の花巻市)の宮沢清六の家に身を寄せた。清六は宮沢賢治の弟である。

 光太郎は生前の賢治に一度だけ会っている。26年12月、上京した賢治は光太郎のアトリエを訪ねた。夕刻になってからの突然の訪問で、手の離せない仕事があった光太郎は翌日来てくれるように言って玄関先で別れた。だが、賢治はそれっきり訪ねてこなかったという。

 無名の賢治は当時30歳、すでに名の知れた詩人で彫刻家だった光太郎は43歳。おそらく賢治は遠慮したのだろう。

 37歳で賢治が死去した後、光太郎は賢治の詩を高く評価し、全集の編纂にもかかわった。

 そうした縁から賢治の弟・清六と親しくなり、空襲で焼け出されたとき、清六を頼って花巻に疎開したのである。

 清六の著書『兄のトランク』には、その当時を回想した文章が収録されている。疲れ果てた様子で宮沢家にやってきた光太郎は、ていねいなもてなしを受けて元気を取り戻すが、8月10日、花巻に大規模な空襲があり、宮沢宅も焼けてしまう。

 戦後の光太郎は、花巻の郊外に小屋を建て、7年間、独居する。

 戦時中に戦意高揚詩を多数書いたことへの自責の念からと言われているが、その場所が花巻だったのは、玄関先で顔を合わせただけに終わった賢治との縁からだった。

 終戦直後、光太郎は宮沢家の避難先を見舞い、その後も長い間、賢治と清六の父のために山羊の乳を届けたという。

新潮社 週刊新潮
2019年3月14日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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