栄光が失われた場所の「甘美さ」と「過去への疑念」――名作『桜の園』が教える新時代の生き抜き方

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桜の園

『桜の園』

著者
本間文子 [著]/チェーホフ [著]
出版社
光文社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784334951511
発売日
2020/03/25
価格
1,540円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

栄光が失われた場所の「甘美さ」と「過去への疑念」――名作『桜の園』が教える新時代の生き抜き方

[レビュアー] 辻本力(編集者)

戯曲を読むのは難しい。

セリフと、俳優の動きを始めとする演出の指定や説明――いわゆるト書きから成るテキストは、小説のような登場人物の細かな内面描写がないため、ただ文字面を読んだだけではなかなか物語が浮かび上がってこない。

それもそのはず、戯曲は舞台での上演を前提に書かれた台本のようなもの。読者は、いわば骨組みだけを提示され、あとはそっちで肉付けしてね、と一任される格好なわけだが、それをこなすのは慣れた人間でなければ難しい。

「小説で読む名作戯曲」は、まさにその点に着目したシリーズである。つまり、その肉付けを作家が担い、小説の形で読者に提示するという試みだ。シリーズ第1弾は、本間文子(ほんまあやこ)が手がける『桜の園』。言わずと知れた、ロシアを代表する劇作家アントン・チェーホフの代表作の1つである。

舞台は、広大なサクランボ畑「桜の園」を擁する領地にあるラネーフスカヤの屋敷。地主貴族の彼女は、娘アーニャに付き添われ久々に帰郷するが、現在は長年の散財で一文無し状態。しかも、借金のカタに売り出されている領地の競売日が目前に迫っている。かつて父親がラネーフスカヤ家の農奴として働いていた実業家のロパーヒンは、彼女を慕い、目下増えつつある別荘族に領地を貸し出すことを進言するが、ぐずぐずと返答を引き延ばされるばかりで埒(らち)が明かない。そして迎えた運命の日、彼女の広大な土地は、ある意外な人物によって落札される――。

『桜の園』は、ロシアの農奴解放令(1861年)を機に没落していく貴族を描いた作品だ。かつての繁栄の時代の甘い記憶を胸に、なす術なく転落していくラネーフスカヤとその家族たち——というのが、この物語の持つ一般的なイメージだろう。しかし、この小説版に関しては、少々視点がズラされているのが面白い。

彼女たちの転落を際立たせるのは、かつて彼らが支配していた農奴階級の躍進だ。この立場の逆転こそが、戯曲を読む者に、あるいは舞台を見るものに、ラネーフスカヤたちの運命の皮肉を強烈に印象付ける。小説版は、この視点に軸足を置き、貴族の没落譚を、かつて彼らに搾取されてきた農奴の子どもであるロパーヒンの成り上がり物語として再構築する。冒頭の登場人物紹介で、本来戯曲では筆頭を飾るラネーフスカヤの名がロパーヒンに取って代わられていることも象徴的だ。

戯曲にはない、小説独自のシーンの挿入にも注目だ。オリジナルでは、幕間の出来事として描かれることのない領地の競売シーンは、手に汗握る心理戦で物語を盛り上げる。さまざまな思惑が入り乱れる中、ジリジリと釣り上げられていく入札額。それが最高額に達した時、登場人物たちの人生が一変する。戯曲のセリフを元に構築された、この「あったはずの場面」は、本書最大のクライマックスとして読者を魅了する。

また、ラネーフスカヤの領地にある「桜の園」の描き方にも、小説ならではの工夫が光る。数多くの登場人物が横断するこの物語の中から、明確に3人の人間にフォーカスする形を取ることで、このサクランボ畑の持つ「機能」が浮かび上がってくるのだ。

被支配者階級から成り上がったロパーヒン、支配者階級から没落したラネーフスカヤ、そして、この2人の生きてきた時代を現代の視点から見つめるアーニャ——彼らにとって、「桜の園」の持つ意味は一様ではない。

ロパーヒンにとってこの場所は、虐げられてきた同胞たちの血と涙の歴史そのものだ。一方、ラネーフスカヤにとっては、失われた輝かしい時代を思い出させる甘美な存在である。そして、新しい時代を生きるアーニャの目には、自分のこれまでの生き方、置かれた環境への疑念を呼び起こす「美しさが失われた場所」として映る。この際立つ差異が、愛憎のドラマを駆動する。

さまざまな象徴として存在感を放つ「桜の園」は、ロパーヒンの思慕の心が復讐心へと傾く様を、ラネーフスカヤの絶望的なまでの変わらなさを、アーニャの諦念と新たな希望の芽生えを黙々と眺めながら、やがて消えゆく。

この小説化は、戯曲を舞台化することと非常に似ているように思える。

戯曲は通常、演出家や俳優、舞台美術家らによって舞台化される。彼らが、戯曲という骨子に「肉付け」を行うことになる。そのために演出家は、自分の考える「作品のキモ」にフォーカスし、演出プランを考える。俳優は、それを元にそれぞれの役を自身の肉体を通して考え、具現化する。

つまり舞台とは、演出家を中心とした舞台に関わる人間たちの「解釈」を形にしたものだと言えるだろう。同じ作品なのに、人によって感想がまったく異なることがあるように、あらゆる芸術作品は、読者の数だけ異なる「読み」が生まれる。そもそも戯曲というものは、多様な解釈の可能な、余白を多分に含んだテキストだ。だからこそチェーホフやシェイクスピアといった古典戯曲は、無数の挑戦者を生み続けながら、繰り返し上演されてきたのではないか。解釈次第で、扱う者の手つき1つで、まったく新しい作品に生まれ変わる可能性があり、その懐の広さこそが戯曲の魅力なのである。

この小説もまた、そうした「新たな『桜の園』の創造」という歴史に一石を投じる作品の1つとして、刺激的な体験を「読者」という名の観客に与えるに違いない。

アップルシード・エージェンシー
2020年5月14日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

アップルシード・エージェンシー

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