主要文芸誌に新人小説の掲載が一つもない珍事

レビュー

1
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

主要文芸誌に新人小説の掲載が一つもない珍事

[レビュアー] 栗原裕一郎(文芸評論家)

 今回は、主要文芸誌に新人小説の掲載が一つもなかった。珍しい事態だ。10月号の文芸誌は小説作品の数自体が普段より少ない。

 表紙に大書された各誌の目玉は、いとうせいこう「夜を昼の國」(文學界)、黒川創「ウィーン近郊」(新潮)、松家仁之「泡」(すばる)の3作だ。

「夜を昼の國」は一種のメタフィクションである。浄瑠璃や歌舞伎で何度もネタにされてきた心中事件「お染久松」のお染が現代に蘇り、SNSで告発する。他人の悲恋を好き勝手に「エントリー」し、個人情報を「アウティング」しやがって、という具合だ。

 古典作品群とそれらの相関性をさらいつつ、現代の「炎上」や「#MeToo運動」などに重ねる趣向で手間がかかっているが、手法や語り口にやや既視感を覚えた。

「ウィーン近郊」は、個人と歴史の折り合いを探った作品と言えるだろうか。

 ウィーンに四半世紀住み孤独に自死した兄・優介と、現地に駆けつけた唯一の肉親である妹・奈緒の物語が軸だ。その軸に、彼女をアテンドする外交官・久保寺の物語が絡んでいく。

 就職氷河期世代である久保寺が思い出す、大学時代の英語教材だった小説『第三の男』が本作の鍵を成す。久保寺が思索する「戦後」という大きな歴史の中での個人と、優介という小さな個人の死が並べられるのだが、互いが必ずしも意味付けあうわけではない。余韻の一方で、とりとめない印象も残った。

 不登校の高校生男子・薫と大叔父・兼定との交流を描いた「泡」は成長小説だが、薫という現在と、兼定という過去が交錯する点で「ウィーン近郊」に似た構造をしている。

 薫と兼定はともに「居場所がない」という意識を抱えており、通じるものを感じている。兼定の「居場所のなさ」はシベリア抑留者だった過去に由来し、戦後日本の断面を象徴している。薫の「居場所のなさ」には現在の問題が映っているだろう(小説の「現在」は1970年代半ばだが)。

 兼定の元から去るラストは薫の成長を感じさせるが、足元の砂を削る波、はかない泡の描写が波瀾の予感を添えている。

新潮社 週刊新潮
2020年10月22日菊見月増大号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

  • このエントリーをはてなブックマークに追加