『生きる演技』
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幽霊は殺戮する
[レビュアー] 鳥羽和久(教育者・作家)
演技といえば世間的には自分とは違う偽者になることだが、人は誰しも生きるうえで演技をしている。この小説の語り手である二人の高校生、生崎陽(きざきよう)と笹岡樹(ささおかいつき)にとって、演技することは、凄惨な自らの世界を反転させ、くすんだ淡い世界を鮮やかにするものだった。彼らはむしろカメラの前で演じているときだけ自然な姿に戻ることができた。
生崎と笹岡は似ているようで対照的でもある。生崎は「自分の身体だけに集中」するような自己愛的身体を持て余し、おそらくはそんな男性的自我をキモいと思っている。それに対して笹岡は「集中をことごとく手放す」ような生き方をしている。生崎は光らない「暗い身体」である自分に比べて笹岡は「光」だと思う。でも、笹岡の方では自分ひとりでは景色がないと思い、だからここにいない声を拾うことができる生崎に惹かれる。そんな二人だから、かれらは交換し演じあう。笹岡の身体が生崎で、生崎の身体が笹岡になる。
二人は恥の共同体である。生崎は初対面の笹岡にキスシーンがエロかったと言われた恥辱のために彼を嫌いになるが、その後、笹岡の演技の中に恥の情動を感じ取り、「おれは生きていてずっと恥ずかしいんだな」という気づきを経て、同じ恥を抱えて生きる笹岡に惹かれていく。
本作における恥とは、自己疎外を経て幽霊化して生きる「われわれ」の意識である。われわれは、親の規範意識を引き摺った劣化コピーにすぎず、主体的に何かを選ぶことなどできない。その受動性を誤魔化すために大人になる過程で言葉と意味をコツコツと積み上げて良心を養う。でも、そこで生じた「私」の正しさって所詮フィクションなのだ。言葉の奥にあったはずの詩に出会い損ねたのに、それを誤魔化して捏造した物語が国民、家族といった連続的な歴史性に彩られた残虐な暴力になる。この意味では、愛も共同体も「殺意」である。暴力となった良心は主体性を喪失するが、主体のない暴力ほど恐ろしいものはない。だから、この暴力的殺意に対して笹岡は同じ殺意で報いようとする。
彼らのクラスでは、文化祭で披露する演劇の準備が二人を中心に進んでいく。生崎はこの経験を通して自身が「私」も「役」も無理な、中間しかできない人間、つまり幽霊だと気づく。そんな幽霊の語りの成れの果てが「われわれ」の殺戮なんだと指弾されたときに、「われわれ」の一人である読者は脳天を撃ち抜かれたような気がし、でも撃ち抜かれていないことに絶望を叫びたくなるかもしれない。
笹岡はだから「だれかの恥におれはなる」と宣言して「取り返しのつかないこと」をやらかし、そして生崎はオリジナルな言葉に辿り着くために、笹岡の言葉を自分の言葉として語り始める。
それは「信じる」という無根拠性にさらされた頼りない道のりである。ここに真理があるわけではなく、それはわれわれの日常的な戦争に対する「私」なりの戦い方であり、それ以上でもそれ以下でもないが、「私」である私は二人の戦いを熱く支持する。