自決前に書き上げた三島由紀夫、最後の長編小説『豊饒の海』 他の長編に比べて圧倒的に面白い理由とは?〈新潮文庫の「三島由紀夫」を34冊 全部読んでみた結果【後編】〉

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豊饒の海 1 春の雪

『豊饒の海 1 春の雪』

著者
三島 由紀夫 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784101050492
発売日
2020/10/28
価格
990円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

34冊! 新潮文庫の三島由紀夫を全部読む[後編]

[レビュアー] 南陀楼綾繁(ライター/編集者)

  ※

『春の雪』脱稿から『奔馬』の執筆開始までは約二カ月の間があったが、『奔馬』を書き終えた三島が『暁の寺』の執筆を開始するのはその一週間後だ(年譜より。『決定版 三島由紀夫全集』第四十二巻、新潮社)。三島がこの作品にのめり込んでいるのが判る。

 しかし、三島が『暁の寺』の最終稿を新潮社の小島喜久江に渡したのは一九七〇年二月下旬で、第四巻の『天人五衰』の執筆を開始したと思われる五月まで、三カ月も空いている。

『天人五衰』について三島は、「第三巻までは、素材も構成もきっちりと決めておくが、第四部だけはわざと決めないでおく。その執筆時の現在の時点で、あらゆる風俗流行をそっくり取り入れるようにしたいから」と最初に宣言していたという(『三島由紀夫と檀一雄』)。実際、本作の結末は事前の構想とは大きく変わっている。

 この時期に「波」に連載していた『小説とは何か』で、三島は『暁の寺』を書き終えて、「実に実に実に不快だったのである」と述べた。そして、最終巻に取り掛かる今、「この小説が終わったあとの世界を、私は考えることができない」と書く。

「私の不快はこの怖ろしい予感から生れたものであった。作品外の現実が私を強引に拉致してくれない限り、(そのための準備は十分にしてあるのに)、私はいつかは深い絶望に陥ることであろう」(『三島由紀夫評論全集』第一巻)

 三島は『豊饒の海』について、小島に「恐いみたいだよ。小説に書いたことが事実になって現れる。そうかと思うと事実の方が小説に先行することもある」と語ったというが、この時点ですでに決起への決意は固まっていたのだろう。

 そういう緊迫のなかで書かれた『天人五衰』は、異様な美しさと醜さの両方を持つ物語だ。舞台は現代の一九七〇年。七十六歳になった本多は、港湾信号所の信号員の安永透が新たな転生者であると信じ、彼を養子に迎える。しかし東大生になった透は、本多を邪険に扱う。清顕の夢日記を読んだ透は、転生者であることを証明しようと二十歳で死ぬべく毒を飲む。

 本多が透に出会ったのは、友人の慶子を連れて三保の松原を訪れたあとだった。そこでは三島が唾棄したであろう、俗化した風景が描かれる。

「又二軒の茶店が、コカ・コーラの赤い梵字や土産物を満載して、売場の棚をせり出している外れに、顔のところだけ穴をあけた記念撮影用の絵看板が立っていた。色褪せた泥絵具が風情を添えたその絵柄は、松を背にして立っている清水の次郎長とお蝶である」

 いわゆる「顔ハメ看板」を小説に登場させたのは、三島が初めてではないだろうか。しかも、本多は慶子の求めを断り切れず、二人で顔を入れて記念撮影までするのである! もちろん、この顔の穴は、本多の悪癖である覗きとつながっている。

 小島千加子は、三島は『豊饒の海』のために入念に取材しており、「深夜の創作活動以外、他の何物にも堪能することを知らなかったと思えるその実生活の中で、唯一没入することの出来るものが“取材”だったのではないか」と述べる(『三島由紀夫と檀一雄』)。だとしたら、三島も顔ハメを体験してみたのかもしれない。

 この小説は、拠りどころを失った本多が、月修寺に聡子を訪れる場面で終わる。

「この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った」

 そして、『豊饒の海』の円環は閉じられるのだ。

   ※

『豊饒の海』には、三島がこれまで培ってきた小説の技巧がすべて投入されている。ここでメインのモチーフとなった輪廻転生は、その後の小説、映画、アニメーションなどを先取りしている。また、『禁色』『鏡子の家』などでは、どの登場人物にも三島自身が投影されているために広がりが出にくいが、『豊饒の海』には、多くの俗物たちが登場して、物語をダイナミックに動かす。

 そして何よりも、この作品では三島が追い求めてきた「行為」というテーマが、見事に物語に息づいている。考えてみれば、三島が『仮面の告白』を書いたのは二十四歳。『金閣寺』は三十一歳で書いているのだ。その後、結婚をして家庭を持ち、『鏡子の家』の酷評やノーベル文学賞を逃すという挫折も味わっている。そういった経験を経て、三島の中でやっと「物語」と「思想」が合致したのではないか。

 だから私は、まだ三島由紀夫を読んだことがないという人には、名作と云われる『仮面の告白』や『金閣寺』よりも先に、『豊饒の海』と短編を読むことを薦めたい。そして、『豊饒の海』とセットで語られがちな三島の自決のことは、いったん切り離して読む方がいい。その方が、「物語作家」としての三島由紀夫を堪能できるし、そのあとで『仮面の告白』などを読む方が三島が本来描きたかったものを理解しやすくなる気がする。

 リニューアルした新潮文庫の『仮面の告白』に新たに付された解説で、作家の中村文則は大江健三郎に聞いたというエピソードを紹介している。

「大江さんが三島から料亭に呼び出され向かうと、三島が日本刀を持って待っていたという。(略)そして三島が格好をつけてその刀を鞘から抜いて振り上げた時、天井に刺さって抜けなくなったという」

 中村はそんな三島を「お茶目だ」と評する。私もそう思う。

 もちろん三島本人は大真面目だったし、当時の評論家も読者も三島にお茶目さを求めてはいなかった。それが時代というものだろう。

 でも、三島は心の奥底で、誰かが自分にツッコミを入れてくれるのを待っていたのかもしれない。

 没後五十年を迎えたいま、私たちはもっと自由に三島を楽しんでもいいのではないか。

 三十四冊の新潮文庫を読み終えて、すっかり三島由紀夫のファンになった私は、そう思う。

新潮社 波
2021年2月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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