自決前に書き上げた三島由紀夫、最後の長編小説『豊饒の海』 他の長編に比べて圧倒的に面白い理由とは?〈新潮文庫の「三島由紀夫」を34冊 全部読んでみた結果【後編】〉

レビュー

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豊饒の海 1 春の雪

『豊饒の海 1 春の雪』

著者
三島 由紀夫 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784101050492
発売日
2020/10/28
価格
990円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

34冊! 新潮文庫の三島由紀夫を全部読む[後編]

[レビュアー] 南陀楼綾繁(ライター/編集者)

   ※

 吉行淳之介は三島由紀夫の死後、一九七四年に「スーパースター」と題する「小説というか実話というか随筆というか、自分でも判断のつかないもの」を書いた(『吉行淳之介全集』第十巻、講談社)。

 その中で、「私」=吉行は、三島の「ワッハッハ」という「独特の高笑い」に触れている。

「弱さを隠しているようにも、豪放さを気取っているようにも聞えていたのだが、やがてそれが彼独特のものとして定着してしまった高笑いの声である」

 また、野坂昭如は石原慎太郎との対談で、こう語る。

「三島さんの笑いは豪快だったといわれるけど、目を見ると笑ってやしないんでね。笑いながら、傷ついていたと思う」(「三島由紀夫へのさようなら」『新文芸読本 三島由紀夫』河出書房新社)。

 三島がいつ頃からこの高笑いを身につけたのかは判らない。しかし、多くの人がこの笑いを印象に残しているのは、どこかわざとらしいものを感じたからではないか。

 前回取り上げた、『午後の曳航』『絹と明察』『音楽』など「物語」として面白く読める長編に比べると、私には、『仮面の告白』『禁色』『金閣寺』など、三島自身が色濃く投影されている長編を読むのがしんどかった。

 とくに新潮文庫で六百ページを超える『鏡子の家』は私には退屈だった。裕福な夫を持つ鏡子のサロンに集まる四人の男の運命を同時並行的に描いているのだが、同じような話の繰返しに感じられた。同作は三島の希望で、市川崑監督により大映で映画化されることになったが、実現しなかった(山内由紀人『三島由紀夫、左手に映画』河出書房新社)。『金閣寺』を見事に映画化した市川崑も、この無機質な物語を前に手をこまねいたのではないか。

 三島は、一年半をかけてこの作品に取り組んだ。「私は自分のあらゆるものをこの長篇に投げ込んでしまったので、当分空っぽなまま暮すほかはない」(「『鏡子の家』そこで私が書いたもの」一九五九年八月、『三島由紀夫評論全集』第一巻、新潮社。現代かな遣いに改めた。以下同)と述べるほどに。

 しかし、江藤淳、平野謙ら評論家はこの作品を失敗作だと断定した。

 井上隆史は『暴流の人 三島由紀夫』(平凡社)で、大島渚との対談における三島の発言を引用している。

「『鏡子の家』でね、僕そんな事いうと恥だけど、あれで皆に非常に解ってほしかったんですよ。(略)その時の文壇の冷たさってなかったんですよ。(略)それから狂っちゃったんでしょうね、きっと」(「ファシストか革命か」「映画芸術」一九六八年一月)

 十年近く経っての発言から、この時の衝撃がいかに深かったかが伝わる。

 私がこれらの作品に親しめないのは、三島の表現したい「思想」に「物語」が従属しているように感じるからだ。

 たとえば、『禁色』では、主人公の南悠一が次のように語る。

「僕は身を挺したい、と時々思うんです。それがどんな佯りの思想のためにでもいいんです。無目的のためにだっていいんです」

 また、『金閣寺』では、主人公の溝口に大学生の柏木が「この世界を変貌させるものは認識だ」と告げる。

「認識の目から見れば、世界は永久に不変であり、そうして永久に変貌するんだ。(略)認識は生の耐えがたさがそのまま人間の武器になったものだが、それで以て耐えがたさは少しも軽減されない。それだけだ」

 それに対して、溝口は「世界を変貌させるのは行為なんだ」と反論する。その言葉通り、彼は金閣に放火する。

 この「行為」が、三島にとって重要な思想であることは確かだろう。しかし、こういった議論の上に組み立てられた物語には、魅力が感じられない。

『仮面の告白』で主人公が「例の『演技』が私の組織の一部と化してしまった」と述べるように、これらの作品での三島の文章はどこか気取っていて、嘘くさい。だから読んでいて息苦しいのだ。

 それだけに、最後に『豊饒の海』四部作に取り掛かったときは、また退屈に耐えることになるのだろうかと憂鬱だった。

 ところが、『春の雪』を読みだすと、たちまち物語に引き込まれた。『奔馬』『暁の寺』と読み進んでも、その面白さは変わらない。気づけば、四冊で千八百ページ近い大長編を四日間で読み終わった。

 他の長編に比べて、この作品が圧倒的に面白いのはなぜだろうか?

 

新潮社 波
2021年2月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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