自決前に書き上げた三島由紀夫、最後の長編小説『豊饒の海』 他の長編に比べて圧倒的に面白い理由とは?〈新潮文庫の「三島由紀夫」を34冊 全部読んでみた結果【後編】〉

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豊饒の海 1 春の雪

『豊饒の海 1 春の雪』

著者
三島 由紀夫 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784101050492
発売日
2020/10/28
価格
990円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

34冊! 新潮文庫の三島由紀夫を全部読む[後編]

[レビュアー] 南陀楼綾繁(ライター/編集者)

  ※

『豊饒の海』は、三島がずっと書きたいと願っていた「全体小説」だった。

 最初から四巻になることが決まっており、次のように構想されていた。

「第一巻『春の雪』は王朝風の恋愛小説で、いわば『たわやめぶり』あるいは『和魂』の小説、第二巻『奔馬』は激越な行動小説で、『ますらおぶり』あるいは『荒魂』の小説、第三巻『暁の寺』はエキゾティックな色彩的な心理小説で、いわば『奇魂』、第四巻(題未定)は、それの書かれるべき時点の事象をふんだんに取込んだ追跡小説で、『幸魂』へみちびかれゆくもの」(「豊饒の海」について」一九六九年二月、『三島由紀夫評論全集』第二巻、新潮社)

 三島は同じ文章で、この作品は「どこかで時間がジャンプし、個別の時間が個別の物語を形づくり、しかも全体が大きな円環をなすもの」だとも述べている。それを実現するために用意された仕掛けが、「『浜松中納言物語』を典拠とした夢と転生の物語」(『春の雪』の後註)だった。

 なお、この全体小説を貫く哲学が、仏教における「阿頼耶識」の思想であり、作中でも何度も解説される。たしかに重要な要素だとは思うが、正直云ってよく判らない。そして、この「阿頼耶識」に関する部分をすっかり読み飛ばしても、この小説は十分に面白いのだ。こんな読み方は邪道だろうか。

『春の雪』は大正初年を舞台に、松枝侯爵の嫡子である清顕と、綾倉伯爵の娘である聡子の恋愛を描く。清顕は幼なじみの聡子を愛しているが、その意思をはっきり伝えないままに、聡子は洞院宮の第三王子・治典王と婚約する。そのことが清顕の心に火を点け、ひそかに聡子と逢瀬を重ねる。聡子は妊娠した子どもを堕胎したのち、奈良の月修寺に入り尼僧となる。

 清顕の友人である本多繁邦は、二人の仲を応援しながら、自分の役に立たなさを痛感する。

「この若さで、彼はただ眺めていた! まるで眺めることが、生れながらの使命のように」

 清顕は本多に夢日記と「又、会うぜ。きっと会う。滝の下で」という言葉を残して、二十歳で死ぬ。この先、本多は清顕が転生した相手を探し、その人物の行く末を見守る人になる。

 第二部『奔馬』の舞台は、一九三二年(昭和七)。本多は滝の下で、飯沼勲に出会う。勲の脇腹には、清顕と同じ三つの黒子があり、本多は転生を信じる。勲は一八七六年(明治九)に熊本で起きた「神風連の乱」にならって、財界人らを暗殺するテロを企てるが、事前に発覚して検挙される。本多は控訴院判事の職を辞して弁護士となり、勲を助けようとする。物語の最後に、勲は「赫奕と昇った」日輪を見る。

 続く第三部『暁の寺』は、一九四一年(昭和十六)にタイを訪れた本多がタイ王室の王女ジン・ジャン(月光姫)に出会う。彼女は自分が日本人の生まれ変わりだと告げ、清顕や勲に関わる日付を正確に答えてみせる。戦後、成長したジン・ジャンが日本を訪れ、本多の別荘にやって来る。本多は書斎の覗き穴から、彼女が清顕-勲の転生者である証拠を見つけようとする。

 まさに、一巻ごとに時代をジャンプしつつ、大きな円環のなかにあるような物語だ。主人公は転生するが、本多は歳を重ねていく。『奔馬』では純粋に勲を助けようとするが、『暁の寺』では黒子の有無を確認するという名目のもと、四十歳下のジン・ジャンの裸を見るためにわざわざ覗き穴まで設けてしまうほどの醜さを見せる。この覗き穴は『午後の曳航』にも登場する。

 また、『奔馬』の勲の父は『春の雪』で松枝家の書生だった飯沼茂之であり、勲が一方的に維新の旗頭に担ぐ洞院宮は聡子の婚約相手だった。清顕と聡子が密会に使ったのは「軍人下宿の離れ」であり、勲はそこに住む中尉に会うために同じ場所を訪れる。下宿の老主人にとっては清顕と勲は同じ人物である。『暁の寺』では、『春の雪』で聡子のあいびきを手引きした女中の蓼科が「言語を絶した老い」の姿で再登場する。このように、巻が進むにしたがって人間関係が絡み合っていくのも魅力だ。

 清顕と勲はその純粋さのために悲劇的な最期を迎えるが、それだけにかえって、周りの人物たちの俗物ぶりが際立つ。

『春の雪』で、聡子の父・綾倉伯爵は聡子の妊娠を知っても、まったく行動に移そうとしない。

「ただ引延ばすことだ。時の微妙な蜜のしたたりの恵みを受けるのは、あらゆる決断というものにひそむ野卑を受け容れるよりもましだった。どんな重大事でも放置しておけば、その放置しておくことから利害が生れ、誰かがこちらの味方に立つのである。これが伯爵の政治学であった」

 この徹底した「無為」は、初期の短編「魔群の通過」で没落した蕗屋が、「わたしはたとえ殺されても、何もしないでいる権利があるのです」と啖呵を切る場面を彷彿させる。

『奔馬』では、勲に近づき同志になりながら最後に裏切る佐和と、それを後ろで操る勲の父・茂之。『暁の寺』では、タイで本多の通訳となり、その無神経さで本多を苛立たせる菱川。おそらく、三島自身がこのような俗物に悩まされてきた経験があったはずだ。だからこそ、彼らは生き生きと描かれている。

 

新潮社 波
2021年2月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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