『墨のゆらめき』
書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます
墨色のきらめきが、胸に押し寄せてくる
[レビュアー] 吉田伸子(書評家)
『まほろ駅前多田便利軒』『風が強く吹いている』『舟を編む』などの著者・三浦しをんの長篇小説『墨のゆらめき』が刊行された。
奔放な書家から実直なホテルマンへの無茶ぶりや突飛なふたりの代筆業に爆笑の渦に包まれつつ、やがて相手の才能や孤独と向き合う姿にほろりとさせられる一作だ。
本作の読みどころを、文芸評論家の吉田伸子さんが読み解く。
吉田伸子・評「墨色のきらめきが、胸に押し寄せてくる」
もしあなたが書道経験者なら、本書を読み終えたらすぐに、インターネットで「書道教室 おすすめ」「書道教室 ○○」(○○には住んでいるエリアが入る)と検索するはずだ。少なくとも、書道経験者である私は、した。書道経験者でなくとも、八割くらいの読者は検索するのではないか、と思う。なぜなら、本書はとびきり極上の「書道小説」だからである。
とはいえ、書道初心者が書道に開眼していく、といった物語ではない(そちらには、河合克敏さんの『とめはねっ! 鈴里高校書道部』という書道漫画の傑作アリ。お勧め!)。本書の真ん中にいるのは、二人の男だ。一人は、西新宿にある、三日月ホテルに勤務するホテルマン・続力で、もう一人は書家・遠田薫。物語は、力が京王線下高井戸駅に降り立つところから始まる。遠田は三日月ホテルの筆耕士として登録されていたものの、連絡先としてメールアドレスしか登録されていなかったため、宛名を書いてもらう封筒を、力が直接届けに行かなければならなかったのだ。かくして、二人は出会う。
もうね、この時の、自宅である「遠田書道教室」までの行き方を伝えた、遠田のメールからしてたまらないんですよ。「玉電の線路を右手に、線路沿いの道を三軒茶屋方向へ五分ほど進む。それまでのあいだで一番ボロいと思われる家が見えたら、そこがたぶんうちです」。どうです、このざっくり感。案の定、こんなざっくりな書き方では力が一発で辿り着けるはずがなく、途中には五叉路までがあらわれる始末。線路沿いの道、というのなら、普通は一本道なのではないのか、と憤りつつも、なんとか正解を見つけた力。そんな彼を出迎えたのは、「役者のようにいい男」という形容がぴったりの美丈夫だった。
小学生相手の教室が長引いてしまっていたため、力は教室の隅で待つことになるのだが、教室での遠田と子どもたちのやりとりのくだりが、これまたたまらない。ここの描写だけで、遠田と子どもたちとの関係が一発でわかるだけでなく、書家としての遠田の卓越した才能もわかるのだ。
なにより素晴らしいのは、全編を通じて、力の目を通して語られる「書」の描写の豊かさだ。かつて、これほど見事に「書」を活写した物語があっただろうか。否、ない。
遠田に渡した封筒に宛名が書かれて送り返されてきた時の、力の感想はこうだ。宛名の文字は「黒曜石を砕いて溶かした墨液を使ったのかと思うほど、鋭くも深い光を帯びて」いながら、「あくまでも『お別れの会』の開催を告げる郵送物、という慎みを保ち、調和が取れている」。
遠田が依頼された、漢詩「送王永(おうえいをおくる)」の書を見た時はこうだ。「活字のようにかっちりした書体で、神経質なほど端整なのに、全体としてなぜかぬくもりと体臭が感じられる」。その書を眺めていた力は、なんだか悲しくなってくる。「いや、漢詩の意味はしかとはわからないが、文字の連なりから静かな悲しみが押し寄せて、俺自身が悲しいかのように錯覚されたのだ」。
凄くないですか? 遠田の書ももちろんだが、その書をこんなふうに受け止める力の感性の真っ直ぐさたるや。そんな力だからこそ、訳あり(なんですよ!)の遠田が自分のフィールドに受け入れるのだ。
ここから先は、まぁ、色々あるのだが、それは実際に読んでください。代筆業でバディを組んだ遠田と力の「作品」をはじめ、思わず声を出して笑ってしまうかと思えば、胸の奥がぎゅうぅぅぅっ、となったり、読み応えたっぷり。本書はAmazonのAudibleとの共同企画として書き下ろされたもので、実際に耳で聴いても素晴らしい作品になっていて、今の今、作家・三浦しをんがどれだけの充実にあるのかがわかるのも、またまたたまらない。読んでから聴くも、聴いてから読むも、お好みで。文句なしの傑作です!