心愉しき代筆屋の物語 思わぬ転調が胸を揺さぶる

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墨のゆらめき

『墨のゆらめき』

著者
三浦 しをん [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784104541089
発売日
2023/05/31
価格
1,760円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

心愉しき代筆屋の物語 思わぬ転調が胸を揺さぶる

[レビュアー] 吉田篤弘(作家)

 ホテルマンの続力と書家の遠田薫、およそかけ離れた肩書きを持つ二人の男が出会うところから物語は始まる。続は愚直なほど生真面目で、遠田は奔放で身勝手なところがある。だから、そう易々とは心が通い合わない。二人を取り持ったのは、遠田の書道教室に通う小学生の遥人くんで、この少年が遠田に手紙の代筆を依頼したことから、二人の距離が縮まっていく。

 遠田は様々な筆致を自在に書き分けられる天才で、依頼者が憑依したかのように、完璧な代筆を披露する。ただ、文面を考えるのが苦手で、これを続が請け負うことになって、二人の共同作業による代筆屋が始まる。

 代筆屋って何? と馴染みがない人もいるだろう。ところが、依頼者の一人である若い女性は、「連絡はLINEばっかりで、手書きの手紙をやりとりしたことは一回もない」と言う。手で書くということの意義が問われ、そこに、現代の代筆屋の思わぬ役割りが見出される。

 物語の主な舞台は件の書道教室で、手で書くことが失われていく世の中においては、「時の流れに取り残されたような」ところである。「なんだかすべてが夢のなか」のようだと続は思うが、仕事で養われた観察眼が、遠田の目に一瞬の「翳り」がよぎるのを見逃さない。いわく――、

「野原だと思って散歩していたら、いつのまにか他人の庭に足を踏み入れてしまっていた」

 大事なことを言い忘れていたが、これはじつに心愉しい小説である。二人のやり取りに度々笑いがこみ上げてくる。それだけに、この「翳り」が際立ち、続は遠田の代筆を称賛するものの、「遠田本来の書風」がどういうものなのか分からない。

 この一瞬の「翳り」が、遠田の来し方が明かされる終盤で大きな波紋となる――。

 誰かに成り代わって文字をしたためていた二人は、その先に、代筆ではない自分自身の字=思いを見出す。

 この転調へ至る二人の胸の内に心を揺さぶられ、読み終えるころには、書くことは生きることであると素直にそう思える。書くことが歩みとなり、字は人が生きてきた証しとしての足跡にほかならないと気づく。

 ちなみに、この作品自体にも、「白い軽トラック」や「風」といった、小説家・三浦しをんの足跡となる言葉が配されている。仮にそれが意図されたものではなかったとしても――いや、無意識であるならなおのこと、この軽やかでありながらも深みを備えた成熟に至った作家の歩みが、その筆致に見事に表れている。

新潮社 週刊新潮
2023年7月6日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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