『ベンヤミンの歴史哲学 ミクロロギーと普遍史』宇和川雄著(人文書院)

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ベンヤミンの歴史哲学

『ベンヤミンの歴史哲学』

著者
宇和川 雄 [著]
出版社
人文書院
ジャンル
哲学・宗教・心理学/哲学
ISBN
9784409031209
発売日
2023/03/27
価格
4,950円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

『ベンヤミンの歴史哲学 ミクロロギーと普遍史』宇和川雄著(人文書院)

[レビュアー] 苅部直(政治学者・東京大教授)

人類の希望 歴史の細部に

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 福澤諭吉は『学問のすゝめ』第十五編(一八七六年)で、真理の探究には懐疑の精神と活発な討論が不可欠だと論じて、こう記した。「人事の進歩して真理に達するの路(みち)は、唯(ただ)異説争論の際にまぎるの一法あるのみ」。「まぎる(間切る)」とは、風に逆らって船を進めるとき、帆の向きを調整しながらジグザグに進んでゆくやり方のことである。多様な意見の衝突から、真理が少しずつ明らかになる過程をたとえている。

 一九三〇年代にナチズムの支配するドイツから逃れ、亡命生活を送った哲学者、ヴァルター・ベンヤミンも、すべての人類が救済される希望を目ざす思想の営みを、「歴史の風」を帆に受けて進む船にたとえた。そのことに本書の著者、宇和川雄は注目して、同時代の画家による絵画作品「レガッタ」を表紙に用いている。

 しかし、福澤のような十九世紀の思想家が説いた人類の全体史とは異なる、真の「普遍史」をベンヤミンは考えていた。歴史の記録や芸術作品における細部の断片から、隠された意味を読み取る。そんな特徴がよく注目される思想家であるが、他面で活躍の初期から「普遍史」の構想を豊かに育てていた。そのことを宇和川は、同時代の文学・哲学・歴史をめぐる諸言説と対照させながら明らかにする。

 一つの秩序への統合を演出する「象徴」の美学や、勝者の事績が織りなす進歩の全体史。そうした思潮が生み出す強烈な同調圧力に抗(あらが)う方法として、ベンヤミンは、過去において抑圧され忘れられた人々に目をむけ、記録の断片を拾い集める作業に没頭した。この営みは目的意識を離れた「遊戯」としての芸術のあり方とも重なるが、単なる好事家の姿勢とは異なる。人類の究極の希望につながる「革命的なチャンスのしるし」を、歴史の細部から見いだそうとする志向が、そこにはしっかりと働いていた。立脚する歴史観はベンヤミンとむしろ対立し、時代も文化圏も異なるものの、西南戦争の敗者としての西郷隆盛について、その「抵抗の精神」を高く評価した福澤諭吉の姿を、やはり連想するのである。

読売新聞
2023年6月9日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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