クラインの壺におさめられた「いま」  古川日出男『紫式部本人による現代語訳「紫式部日記」』

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紫式部本人による現代語訳「紫式部日記」

『紫式部本人による現代語訳「紫式部日記」』

著者
古川 日出男 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784103060802
発売日
2023/11/29
価格
1,980円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

クラインの壺におさめられた「いま」

[レビュアー] いしいしんじ(作家)

いしいしんじ・評「クラインの壺におさめられた「いま」」

 自宅から自転車で五分ほどのところに、「源氏の物語」がここで書かれた、と伝えられる邸の跡がある。現在は廬山寺という天台系の寺院が建っている。

 本堂で庭の地面を見ながら風を浴びていると、不意に、千年の時間なんて、五分前と同じ、ほぼ「いま」だな、という気になる。たったいま、道長から贈られた陸奥紙に、彼女は筆を立て、さらさらと仮名を書きしるす、滑らかな流跡が風のなかにひるがえる。

「紫式部日記」は、彼女の手による、ふしぎな読みものだ。中宮彰子の出産前後の日々をつづった記録であるいっぽう、随所にため息まじりの独白がちりばめられ、後半にはえんえん、日々の記録とはかけはなれた、宮中の女性たちの「品定め」のような記述がつづく。その「ふしぎさ」に脈絡を与えようと、「冒頭ふくめ、散逸した箇所が少なくない」とか「後半のひとり語りは、どこかの時点で、誰かにあてた手紙とごっちゃになった」とか、これまでいろんな理屈が語られてきた。

 その「ふしぎさ」を、「フィクションライター」古川日出男はまるのまま受けとめる。「現代語訳」をするにあたり、「先輩フィクションライター」紫式部を、時のむこうから「いま」へと招来する。「いま」の上に「日記」を差しだし、そのテキストを書いた本人に「現代語訳」してもらう。という、クラインの壺のようなフィクションを編む。

 当然、複数の「いま」が、ちがう日の光のように交錯する。

(1)いちばん旧い、日記に書かれたできごとの起きた「当時」(道長が酔って泣いたり、宮中に追いはぎが出たり)。

(2)紫式部がみずからの房で日記を認めている「昔」。

(3)フィクションの紫式部が訳文を語っている、どこにも属さない「今」。

(4)読者がフィクションを読んで、じんときたり、ええっ、と驚いたり、「いま」を忘れてページを繰ったりしている「現在」。

 これら複数の時間を、古川日出男が語るフィクションの「時(いま)」が束ね、ほどき、つなぎ、重ねる。その楽しさ。自在さ。

 日付とはくさびだわ。おまけに正確な記録というのはこのくさびを要求する。八月二十日すぎに進もう。このころからお邸のありさまがさらに変わりだした。

 とまどいは、あって当然です。ここは――この日記の内側の世界は――少しも「現代」ではないのですから。一千年以上もむかしなんですから!

 やがて「くさび」ははずされる。日々の正確な記録は、跳ばされ、要約され、背景に遠ざかる。かわり、日記の深部から「ノーマルさからは外れ」た感性が噴出し、テキストを「グルーミィ」の色に染めぬく。そこには、死の影、閉塞、偶然、悪夢が、輪郭をとらないまま渦巻く。彼女の著した巨大な「もの語り」で、主人公たちの魂にしみついていたものと同じ。あるいは、すべての「いま」を通じ、自らを生きるほかない人間の、いっそう切実な、普遍の「わたし語り」。

 見取り図にのっとって、ではない。古川日出男は聞きのがさない。「気質というか本質、ネイチャー」で、紫式部はこのように書く。このようにしか書かれない。結果「わたしは日記をつづけようとするモチベーションをうしないました」とまっすぐに語る。クラインの壺が、いつのまにか完結している。

 すべての書物は、読まれる瞬間、読むものによって「現在語訳」される。古川と紫式部の輪唱に乗ってぼくたちの「いま」は未知の生きもののように伸び縮みする。本書と「日記」の原書を携え、廬山寺まで自転車を走らせる。いったいどんな「いま」が、まわりつづけるぼくの車輪に引っかかるだろう。

新潮社 波
2023年12月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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