『甘くない湖水』ジュリア・カミニート著

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甘くない湖水

『甘くない湖水』

著者
ジュリア・カミニート [著]/越前 貴美子 [訳]
出版社
早川書房
ジャンル
文学/外国文学小説
ISBN
9784152102768
発売日
2023/11/07
価格
2,750円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

『甘くない湖水』ジュリア・カミニート著

[レビュアー] 遠藤秀紀(解剖学者・東京大教授)

貧困や葛藤 少女の青春

 家畜と農村民の暮らしを見ようと、世界を歩いてきた。途上国や最貧国を訪れる狭間(はざま)で、まれにヨーロッパに足を踏み入れる。なぜかイタリアは私の心を捉えた。陽気な男女やブランド品がつくるステレオタイプに出会う機会はなかったが、長靴の形をした国の随所で、古い家畜と少し俯(うつむ)いて暮らす謙虚な農民が一緒にかわいい村をつくっている。それが私の見てきたイタリアのいまだ。

 かの国の気鋭の書き手、ジュリア・カミニートが描くのは、幼い少女が社会に出るかという年齢に至るまでの青春劇である。幼さとの決別、学校という秩序、異父兄との距離感、級友からのいじめ、初潮と性、学びへの没頭、大人への反発、若者自前の序列、通過儀礼の恋愛、裸体とセックス、成人祝いの憂鬱(ゆううつ)、犯罪と麻薬、苦悩と自殺、政治への関心、友情に裏切り、放火そして殺意。一通りの要素が出揃(でそろ)う十代の舞台を、フィクションとしての幾分か過激な出来事を背負って主人公が駆け抜ける。

 一貫した柱は家族の貧困だ。ときに貧しさを受忍して生き、ときにそれを打ち破るべく社会と対立する母親。娘にあえて厳しく接するのは、母性なる見境のない優しさゆえか。

 百年前のドイツ人なら説教じみた高尚な成長物語に体系化するものを、カミニートは言葉のリズムに貼り付けてきた。主人公の目から見た大人社会が行間の比喩として鈍く光る。変幻自在の文章が虚無と物憂さの魅力を惹(ひ)き出す。章によって場面によって、物語は散文詩にすら変貌(へんぼう)するのだ。題名もどうやらその技の中にあった。湖水の味が登場するのは、書中のどちらかといえば地味なエピソードである。主人公をして甘くないはずの湖水を「甘い」と絶叫させたのは、煩悶(はんもん)する「大人未満」の暴発だろう。

 のたうちまわる主人公と母親の葛藤は、日本人なら違和感なく受け止めることができる。十代を思い出しながら再読したい。越前貴美子訳。(早川書房、2750円)

読売新聞
2024年1月12日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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