僕の人生には事件が起きない
2024/01/12

ハライチ岩井、サイン会でパニックに陥る…会場から逃げ出したくなった気持ち悪い質問とは?

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イラスト:岩井勇気(ハライチ)

お笑い芸人・ハライチの岩井勇気による連載エッセイがパワーアップして再始動!「人生には事件なんて起きないほうがいい」と思っていたはずが……独自の視点で日常に潜むちょっとした違和感を綴ります。今回のテーマは「初めてのサイン会」です。

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 小学生の頃、ずっと漫画を読んでいた。そもそも父親が漫画の週刊誌を毎週4、5冊買っていたので、とにかく多くの最新話を読める、漫画英才教育を受けていたのだ。

 当時、それだけの量の漫画雑誌を毎週買っているのは同級生の中では僕の家だけで、雑誌の発売日から2日過ぎると、友達が僕と父親の読み終わった雑誌をもらいに、わざわざ住んでいた公営団地の5階まで訪ねてきていた。そしてその友達はもらった雑誌を次の友達に、さらにまた次の友達に、といった“回し読み”と呼ばれるものの源流に僕はいた。そのことには、子供ながら優越感を覚えていたと思う。

 大人になるにつれ、自分のお金で単行本を買うようになり、電車に乗るたびに駅の本屋で買っていたら、家にある漫画は3000冊程になった。

 そんな漫画も30歳の時、一人暮らしを始めるにあたって全て実家に置いてきてしまった。漫画は買わなくなり、その代わりに、アニメをひたすら観るようになっていったのだ。

 しかし、アニメに移行してからも1冊だけ月刊の漫画雑誌を毎月買っていた。それはいわゆる“成人指定”の雑誌であった。性描写のある漫画が毎月何作も掲載されている雑誌を、僕は面白半分で購読していた。

 やがて毎月購読している中で、気になる作品に出会ったのだ。その作品は、他の作品とは絵のテイストが明らかに違った。どこか、この雑誌を読むような人の好みの絵からは外れていて、特徴的なのだ。話も性描写がメインではなく、ストーリーを読ませてくれるようなもので、絵も相まって、掲載されている作品の中ではかなり異色に感じられた。

 僕はこの作品を描く漫画家が気になり、インターネットで漫画家のことを調べ、出てきた作品を読み漁った。そして、そのままのめり込んでいった。

 さらに調べていく内に僕はある情報に辿り着く。近日、その漫画家のサイン会があるというのだ。概要を見ると抽選に当選するのは100名、当日会場限定で販売される冊子を買い、それにサインをしてもらえるというものであった。よく見ると、応募の締め切りが迫っている。僕はすぐ応募の手続きを行い、当選発表を待った。

 数日後、メールボックスに抽選結果が送られてきていた。開けると、そこには『当選』の文字。どれくらいの応募があったのかはわからないが、嬉しかった。が、僕は同時にあることに気付いた。誰かのサイン会など、一度も行ったことがないのだ。
 
 
 
 漫画家のサイン会の勝手がわからない。当選メールに書いてあった会場は、小規模だがおしゃれなイベントスペースであった。

 僕はなんとなく、会場の様子とサイン会本番の想像をしてみた。会場には成人指定の漫画が好きそうな前のめりで汗だくの男達が集まり、それらが行列を成して今か今かと自分の番を待つ。そこに並んだ僕は、自分の前にいる参加者のTシャツの汗ジミがどんどん広がっていくのを見ながら、順番を待つ。程なくして自分の番が来る。そして持っていた冊子を漫画家の先生に渡し、サインをしてもらうのだ。

 と、この一連の想像をして僕は気がついた。冊子を渡す時と、先生がサインを書いている時間。その2つのタイミングで、せっかくサイン会が当たって来ているのだから、何かこちらから先生に喋りかけた方がいいんじゃないのか? おそらく話すとしたらそれらの瞬間だろう。僕は想像を巡らせながら、伝える言葉をじっくり考えた。
 
 
 
 当日、メールに書いてあった集合時間より少し前に会場に着いた。会場の前では、今日のサイン会の参加者と思しき人達がわらわらと入り口に集まっていた。だが、僕はそこで想像もしていなかった事実を知る。

 参加者のほとんどが女の人なのだ。20~30代の女の人が9割を占め、男ばかりの暑苦しい想像とはかけ離れており、言わば女の園といった雰囲気。先生の漫画は成人指定の雑誌以外に掲載されることもあり、もしかするとそっち側の読者層なのかもしれない。僕は成人指定雑誌の方の漫画の印象が強すぎて、女の人ばかりの人だまりの端にポツンと立つこの状況を予測できていなかった。頭の中で何度も思い描いて練習してきたサイン会が初めに崩れ去り、そこで妙に緊張し出した。

 時間になり、係員が出てきてメールに書かれていた番号順に中へ案内する。中盤あたりで僕も呼ばれ、建物に入った。中の開けた場所には間を置いて椅子が並べられており、参加者は案内された順にそこに座っていた。この光景も想像とは違う。立ちながら並び、参加者の列が先生の待つテーブルまでゾロゾロと続くのを頭に浮かべていた。

 そのまま全員が椅子に座り、係の人が「それではサイン会を始めたいと思います。先生よろしくお願いします」と言うと、イベントスペース前方の扉から先生が出てきた。もちろん姿を見たことはなく、あれがあの漫画を描いている先生かぁ、と動きのひとつひとつを目で追った。

 そこから番号を呼ばれた参加者は順々に前のテーブルに行き、冊子を渡してサインを書いてもらう、といった流れで、割とテンポ良くサイン会は行われていった。呼ばれる番号が自分に近付くにつれ緊張感は増し、ついに僕の前の人の番号が呼ばれた。

 僕の前の人は小柄な女の人であり、自分の番号が呼ばれると、置いていた荷物を持ち足速に先生の座るテーブルへ歩いていった。しかし、椅子から前のテーブルに向かう途中にちょっとした段差があり、そこに躓いて、前の人は先生の待つテーブルに辿り着く手前で大転倒した。そして持っていたハンドバッグの中身を会場にぶちまけたのだ。

 前の人……!! と思ったのも束の間、前の人は即座に立ち上がり、飛び出した中身をすごい勢いで拾いながら、バッグに押し込め出した。心配した先生が「大丈夫ですか……?」と声をかけたが、前の人は「大丈夫です! 大丈夫です……!」と、一心不乱に荷物を拾ってはバッグに投げ入れていた。

 前の人のその様子を他の参加者と共に見ていて、僕は恐怖を覚えた。緊張が度を越えてしまえば、ああなってしまうかもしれない。前の人は自分だったかもしれない。あんな状況に陥れば、先生の前に立っても、もうサイン会どころではなく、無数の反省が頭を巡るだけの時間になってしまうだろう。それはあってはならない。先生にサインをもらった後、小走りで会場を出る前の人を見ていて、気持ちを入れ直した。

 とうとう係員が僕の番号を呼んだ。僕は荷物を持って立ち上がり、途中の段差に細心の注意を払いながら先生の待つテーブルへと歩き、無事先生の目の前まで辿り着いた。僕は軽く頭を下げながら「よろしくお願いします」と言い、サインをしてもらう冊子を差し出した。そして先生が受け取る直前、僕は先生に喋りかけようと考えていた言葉を声に出した。

「成人指定の雑誌で読んでファンになりました……」その時、前日から考えていた言葉のはずが、全く想像していたようには言えず、思ったより声が小さくなってしまった。さらに女の園のこの会場で、成人指定の雑誌で読んだなどと伝えてよかったのだろうかという後悔が、声に出してから湧き上がり、土壇場の自分の気持ち悪さに気付く。

 それをどうにかしようと焦ったのか、「あ、いや、来られる方がこんなに女の人ばかりだと思わなくて……成人向け雑誌で読んでたんで……」と口が勝手に喋っている。僕は大転倒した前の人を思い出していた。この取り繕おうとして逆に困惑させている状況は、あの前の人と一緒だ。冷静にならなくてはならない。

 冊子を受け取った先生が、サインをし始める。僕はここで先生に何かを質問することを決めていた。試行錯誤を重ね、何人も相手をするサイン会でさんざ聞かれたであろう質問ではなく、答えによって少しパーソナルな部分がわかる質問を考えていた。その末、導き出した質問を先生にぶつけたのだ。

「朝ごはん、いつもなに食べてますか……?」言った瞬間に僕は自分が気持ち悪いとわかった。本番前までの想像では、こんなはずではなかったのだ。朝ごはんという言葉の爽やかさを含めて絶妙な質問に思えていたのだが、緊張からくる絞り出した声と、少しヘラヘラしてしまったことで相当気持ち悪くなってしまった。早くこの場から逃げ出したい。あの前の人と同じ気持ちになっていた。

 先生はサインを入れた冊子を僕に渡しながら、「地元のほうでは有名なのですが……」と言って地方で有名なパンの名前を教えてくれた。そして僕は冊子を受け取り「ありがとうございました……」と頭を下げ、早歩きで会場を出たのだった。
 
 
 
 会場を出て少し歩いたあたりで気持ちを落ち着かせ、周りに人がいないことを確認し、冊子を開いた。そこには今さっき書かれた先生のサインがあり、僕はそれを見ながら、さっきの質問は先生の地元のことも知ることができて意外と良かったかも知れない……! と、少し前向きになった。

【お知らせ】
隔月第2金曜日にブックバンで公開していたハライチ岩井勇気さんの連載は本記事をもって更新終了となります。最終回は文芸誌「小説新潮 2月号」(2024年1月22日発売)でお楽しみください。

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岩井勇気(いわい・ゆうき)
1986年埼玉県生まれ。幼稚園からの幼馴染だった澤部佑と「ハライチ」を結成、2006年にデビュー。すぐに注目を浴びる。ボケ担当でネタも作っている。アニメと猫が大好き。特技はピアノ。ベストセラーになったデビューエッセイ集『僕の人生には事件が起きない」に続く、『どうやら僕の日常生活はまちがっている』は2冊目の著書になる。

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