阿川佐和子×遠藤龍之介×斎藤由香×矢代朝子 座談会〈後篇〉/文士の子ども被害者の会

対談・鼎談

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「町田市民文学館ことばらんど」開館10周年記念座談会〈後篇〉 阿川佐和子×遠藤龍之介×斎藤由香×矢代朝子/文士の子ども被害者の会

■「北杜夫全集」未収録シナリオ!?


写真④

阿川 次の写真は「劇団樹座」に北さんが出演なさった時のものですね(写真④)。劇団樹座は遠藤周作さんが主宰者となって、「いろんな劇団があるけれども、樹座は一番音痴なやつが主役を取れる、一番演技の下手なやつが主役を張れる」という劇団でした。大変な評判になって、入団希望者が続出し、ついにはニューヨーク公演まで行ったという……。

遠藤 まあ、ニューヨークでも劇場は借りようと思えば借りられますから。

阿川 のちに遠藤さんが仰るには、「最近困ってるんだよ。劇団樹座のみんなが、何度か公演してるうちにうまくなっちゃってね。下手なやつが少なくなってきたのが問題なんだ。もっと下手な人をスカウトしなくちゃいけない」。

遠藤 樹座には父が考えたコピーがありまして、「やる者天国、見る者地獄」(会場笑)。まさにコピー通りでした。

阿川 私、「クレオパトラ」を拝見しましたけれども、遠藤さんが幕間に出てらして、「皆さま、大変申し訳ございませんが、クレオパトラになりたいという者があまりにも多いので、一場面ずつ違うクレオパトラが出てまいります」。

遠藤 痩せてたクレオパトラが急に太ったり、背の高いのが小さくなったり、よくよく注意して観ていないと筋がわからなくなる(会場笑)。

阿川 この写真の真ん中が北さんですね。

斎藤 父は樹座の舞台に「ハムレット」など何度か出ていますが、この時は父が大躁病の時で、台本にないセリフを好き勝手に言うので、看護師さんたちが舞台の袖に引っ張り込むという段取りでした。

遠藤 この舞台は一九八九年ということですね。当時私はまだテレビ局で駆け出しだったのですが、突然会社に北先生からお電話がありました。「龍之介君、頼まれていたドラマの台本ができてるから取りに来てくれ」と。これ、お願いしてないのです(会場笑)。

阿川 どうしたんですか、それ?

遠藤 上司に、こういう電話があったと説明して、急いでお宅まで伺ったんです。応接間に北先生がいらして、目の前に原稿の束がある。「頼んでおりません」とはとても申し上げられなくて、「先生、お願いした私が言うのも何でございますが、これはどんなお話でございましょう?」(会場笑)。すると、火星人の女と地球人の男の恋愛物語だというんですね。もう頭の中が真っ白になりました。必死で、「うちはいろんなドラマをやっておりますが、火星人はちょっと難しいかもしれません」。北先生は悲しそうな顔をして、「そうですか。もう火星人の女は加賀まりこに頼んでます」。何と、本当に頼まれていたんですよ(会場笑)。加賀まりこさんの事務所にお電話したら、北先生は加賀さんの事務所の社長をご存じだったらしくて、「ええ、北先生に言われまして、スケジュールを押さえてあります」。もう、どうしようかと思って。

 それで、北先生は「地球人の男は自分がやる」とも仰るんです。「先生、俳優というのは、朝から晩までずーっと収録が続くから、体力的に非常に厳しゅうございます」と申し上げたら、また悲しそうな顔をなさって、「それでは私、俳優は断念して、アシスタントディレクターを」「そっちの方がもっと大変です」。

阿川 結局、どうなったんです?

遠藤 ちょうどその頃、『世にも奇妙な物語』の制作が始まったばかりでしたので、「私、担当ではございませんので、『世にも奇妙な』の担当者を今度連れてまいります」と言った覚えがあります。それがこの写真の頃です。大躁病でいらした。

阿川 北さんに「週刊文春」のアガワ対談に出て頂いたのはもっと後ですよね。

斎藤 二〇〇〇年くらいかしら。

阿川 躁と鬱の周期がかつては季節物だったのに、お歳を重ねるにつれ、だんだん延びて来て、オリンピックと同じように四年に一回になり、それも延びて……。

斎藤 ついには十年に一度になって。

阿川 ずっと軽鬱の状態が続いておられて、北さんは「もうこの状態で死ぬんだな」と思っていらしたら、久しぶりに躁状態になられた。それで北さんからお電話があったんです。「佐和子ちゃん、僕を『週刊文春』の対談に出したまえ」。それはもうドラマよりずっと出て頂きたいじゃないですか。早速お出まし頂いて、その後、「出して頂いたお礼に」ってオークラのフレンチをご馳走して下さったんです。由香ちゃんも一緒にいらして。

斎藤 佐和子さんに失礼がないようにと、私は見張り役でついていったのです。

阿川 それで北さんが「佐和子ちゃん、キャビアにしよう」「やった!」とか言って、キャビアを頂いていたら、由香ちゃんが「十年ぶりの躁病で、どれほど家族が大変だったか」という話をしてくれたんですよね。お母さまと由香ちゃんが二人とも出かけなきゃいけない日、つまり北さん一人で留守番させる時は、また株とか買うと大変だから、電話のコードを抜いて使えないようにして、真夏なのに雨戸を閉めて出かけなきゃいけないの、とか。

斎藤 隣家の宮脇俊三先生の家に行って、証券会社に電話をするんですよ。

阿川 北さんが「なんで雨戸を閉めるんだ」って訊いてくるから、真冬だったけど、「台風が来るのよ」「そうか」。これで大丈夫だと思ってお出かけして戻ってきたら、北さん、株を買ってた。

遠藤 どうやって?

斎藤 窓の格子から宅急便の人の携帯電話を借りて、証券会社に電話したんです。父は携帯の使い方も知らないのに。

遠藤 もう「スパイ大作戦」ですね。

阿川 で、由香ちゃんがああなってこうなって、あれも大変、これも大変、それも大変って面白い話をいろいろなさって、その合間に北さんが「いや、僕は」とか何か言いたそうにするんだけど、由香ちゃんの勢いがすごいから、「北さん、後でまとめて伺いますから。由香ちゃんの話を全部聞いてから、反論とか付け加えることがあったら仰って下さいね」って言って、由香ちゃんの話が終わったところで、「はい、北さんの番です。今のお話に何かご不満ありますか」って伺ったら、「いや、由香の言ったことはほぼ事実です。ただ、僕は由香が躁病になったのではないかと心配になりました」(会場笑)。そんなユーモアは最後までおありでしたね。

遠藤 僕、ずっと不思議だったのは、北先生は精神科のお医者さまですよね。ご自身の躁鬱病をコントロールできなかったんでしょうか?

斎藤 躁病の時はすごく楽しいので治したくないんです。青い空がより青くなって、浪花節を歌って、絵を描きたいとなったら銀座の画廊で個展をしたり、大騒ぎしていました。実は母も私も深刻には心配してなくて、丸ごと父を受け止めていましたね。

阿川 さっきチラッと名前が出ましたが、国も作っちゃいましたもんね。

斎藤 日本から独立したいと、「マンボウ・マブゼ共和国」という国を作った。で、日本と同じように文華勲章も授与したいということで、遠藤先生に文華勲章を受けて頂きました。大悪魔賞というのもあって、「僕をたぶらかしたのは加賀まりこだ」と、加賀まりこさんまで授章式にご招待したので、フォーカスや新聞記者までいらした。庭で園遊会までしました(会場笑)。

矢代 遠藤先生はちゃんとお付合い下さるのが素晴らしいですよね。寛容というか、子どもの心をお持ちなんだと思う。

遠藤 友人とか、親戚のおじさんに子どもの心があるといいなと思うけど、自分の父親に持たれると迷惑な時もあります(会場笑)。

新潮社 波
2017年3月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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