北村薫×柳家喬太郎「漱石のうどん屋」 夏目漱石没後一〇〇年記念落語会

対談・鼎談

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北村薫×柳家喬太郎「漱石のうどん屋」 神楽坂ブック倶楽部イベント詳報!

こうして落語が育っていく

北村薫さん
北村薫さん

北村 今の話でふと思い出しましたが、桂竹千代さんって若い落語家さんがいますね。

喬太郎 ええ、一二回しか会ったことはありませんが、竹丸師匠のお弟子さんですね。二つ目になってまだ数年くらいの。

北村 いろんな落語家によって、さまざまな噺に新しい演出がなされていくのに立ち会えるのが、落語を聴く楽しみの一つです。志ん朝師匠が「愛宕山」で幇間(たいこもち)の一八(いっぱち)に「狼にヨイショはきかない」と言わせたり、古くは八代目桂文楽が「船徳」で「竹屋の小父さん」という謎の人物を出して――。

喬太郎 「徳さん一人かーい、大丈夫かーい」と言わせたり。

北村 最近、竹千代さんが「だくだく」を演られたのを聴いたんです。何にも持ってない貧乏な男が、絵師に頼んで長屋の壁に箪笥とか火鉢なんかの絵を描いてもらう噺ですね。サゲは、壁に描いてもらった槍を取って、泥棒めがけて突いたつもり、泥棒の腹から血がだくだくっと出たつもり、となります。まず絵師を呼んで、いろんなものを描いてくれと頼んでいく場面で、貧乏な男の妄想がどんどん広がって、あれもこれもとなる。これは「湯屋番」などにもある、落語の大事なパターンの一つですが、妄想のスケールがあまりにエスカレートしてきて、描いてた絵師が「だんだんお前が怖くなってきた」と言うんですよ。これは「だくだく」という噺の本質を捕まえた、実にいいフレーズだなあと感心しました。あとで竹千代さんとお話しする機会があったので、「あれはどなたの?」と訊くと、「僕のオリジナルです」と。彼のような若い二つ目さんも含めて、いろんな落語家が噺にさまざまなものをつけ加えていくんだなあと改めて思ったんです。

喬太郎 噺を演っていて、計算して入れようとしたのではなくて、その時その場でフッと出ちゃうセリフ、というのがあるんですよね。

北村 魂の叫び(会場笑)。

喬太郎 ……ではないかもしれませんが(会場笑)、そういう時って、たぶん登場人物が喋っているんですよ。それがたまさかドッと受けたり、受けなくても演者の腑に落ちたりして、有効なセリフとなり、その登場人物のセリフに固まっていくことがあるんです。ただ、固定化した瞬間に〈台本のセリフ〉に変ってしまうんですね。すると、最初にフッと出た時の〈活き活き感〉が薄まってしまう。けれど、そこで活き活き感にあんまり固執すると、そのセリフが言いたいがために他のデッサンが狂ってくることもある。だから、そんな新しく出て来たセリフを大事にしながら、噺の人物を闊達に動かしていくことが大切だと考えています。

 大師匠が言った「芸は人なり」というのも、このことだと思うんですよ。新作でも古典でも、言うつもりのないセリフがパッと出る時があります。工夫しようとしたわけでもないのに、噺の人物が動いて、無意識に出ちゃうセリフがある。

「文七元結(ぶんしちもっとい)」で、左官の長兵衛が娘のお久を売って作った五十両というカネを文七にあげますよね。何年か前、あの吾妻橋の場面で、「そんな大事なおカネ、貰うわけには参りません」と文七が断った時、フッと「今ここにお久がいたら、『おとっつぁん、私はいいから、この人にやっとくれ』と言うんだよ。そういう娘なんだ、うちのお久は」というセリフが口をついて出たんです。あとから女性のお客さんに「あの噺は好きなんだけど、たった今、娘を売ってきたばかりの五十両をなんであげちゃうのか、ずっと分からなかったんです。それがあのセリフで腑に落ちました」と言われました。むろん「それは違うよ」という意見もあるでしょうし、いいか悪いかは分かりませんが、僕の中で新しいことができたという感覚は残ったんです。

北村 そうやって落語は育っていくんですね。喬太郎さんのすばらしく真剣なお顔を間近で拝見できました。

喬太郎 あのー、そろそろ漱石の話でもしませんか?(会場笑)

新潮社 波
2017年5月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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