[本の森 歴史・時代]『水壁』高橋克彦

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水壁

『水壁』

著者
高橋克彦 [著]
出版社
PHP研究所
ISBN
9784569832814
発売日
2017/03/11
価格
1,870円(税込)

[本の森 歴史・時代]『水壁』高橋克彦

[レビュアー] 田口幹人(書店人)

多くの読書家には、それぞれが読んできた歴史の中で、忘れられない一冊・自分を形作った一冊があると思う。さらに言えば、人生の最後にこの本を読みたいと思う一冊をお持ちではないだろうか。一冊の本が、読んだ者の人生を変えてしまうことがある。

 僕にとって、その一冊は高橋克彦『火怨』(講談社)である。

『火怨』は、かつて東北地方が蝦夷の地と呼ばれていた時代、朝廷が書き残した歴史書『続日本紀』にほんの数行だけ触れられていた阿弖流為(アテルイ)と征夷大将軍・坂上田村麻呂との戦いを壮大なスケールで描いた物語だ。勝者が残したものが歴史となり後世に伝えられる。しかし、それは真実の一部でしかない。そこに敗者の歴史が存在しないのだから。敗者の歴史もまた真実である。その二つの真実の狭間に、事実としての歴史が存在する。

 朝廷が歴史から意図的に抹殺しようとした人物の一人、主人公・阿弖流為は東北の英雄であり、東北魂の礎となる人物である。蝦夷の地を鎮圧・平定するために、かつてないほどの兵を動員した朝廷と、寡兵にもかかわらず互角の闘いを繰り広げた。その根底には、中央の力に屈しないのだという先住民の意地と誇りと怒りがあるのだが、『火怨』という物語を通じて著者が訴えたかったのは、この闘いは、上下主従関係ではなく対等な存在として自分たちを認めさせるための闘いだったという点にある。異なる文化を育み、異なる信仰を持ち、異なる風土で暮らす者たちが共生することができる世。その世を実現するために立ち上がった男が、東北の英雄・阿弖流為だったのだ。

 僕が、本を読み涙を流したのは、後にも先にも『火怨』だけである。『火怨』と出会ってから、僕は東北に生まれたことに誇りを持ち生きている。

 この度、高橋克彦は、その阿弖流為の血を引く若者・天日子(そらひこ)を主人公とした『水壁』(PHP研究所)を上梓した。陸奥を舞台とした争いの中で唯一蝦夷が朝廷に勝利したと記されている878年から879年に起こった元慶(がんぎょう)の乱を描いた物語だ。著者のライフワークである東北の大河小説シリーズの中で、もっとも史料が少なかったという元慶の乱の時代の蝦夷の地。その数少ない記録の狭間を著者の想像力で補いながら東北の歴史の礎を築いた東北の先住民族・蝦夷を描くことで、真の東北の姿を後世に残すのだという揺ぎ無い信念が滲み出る物語だった。

 あらためて、東北に生まれたことに誇りを持てる作品と出会えたことに感謝したい。

新潮社 小説新潮
2017年5月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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