角田光代『源氏物語』を訳す

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源氏物語 上

『源氏物語 上』

著者
角田 光代 [訳]
出版社
河出書房新社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784309728742
発売日
2017/09/11
価格
3,850円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

角田光代『源氏物語』を訳す

[文] 瀧井朝世(ライター)

■翻訳の姿勢

──以前「今後しばらく小説は出しません」とおっしゃっていました。他の仕事をいったん中断して、ずっとこれに取りかかろうとスケジューリングしたということですか。

角田 もともと仕事を減らそうとしていた時期ではあったんですが、ちょうど二〇一五年の四月で、抱えていた小説の連載が全部終わったんですよね。そこから連載を入れないようにしました。

──いろいろ仕事を整理してこれに取りかかろうというときに、まず何から始められたんですか。

角田 飛び飛びでしか読んだことがないので、まず、物語を通読しようと思いました。

──原文で?

角田 いきなりの原文は無理でした(笑)。誰かの訳で。とにかく読みにくいという先入観があったので、イギリス人のアーサー・ウェイリーが英語に訳して、それを日本語にさらに訳した『ウェイリー版 源氏物語』をまず読み始めました。これは思った以上に読みやすかったです。でも、正直あまり夢中になれないんですよね。それを読みながら他の方の訳も読み始めて。大和和紀さんのマンガの『あさきゆめみし』も読みました。与謝野晶子や谷崎潤一郎訳、瀬戸内寂聴さん訳も。

 でもいろいろ読み比べているうちにだんだんわからなくなってきて。結局これは文字を追うようにして全部読んでいるよりも、自分で翻訳する作業に入っちゃったほうが早いのでは、と思って、真面目に読み通すのはちょっとやめて、一から訳すようにしていきました。

──訳すときに他の人の翻訳はどれくらい意識されましたか。

角田 最初は本当に何も意識しないで、「こんなに訳している人がいっぱいいるなら、大丈夫。その人たちの訳を読めばいい。私の訳をわざわざ読む必要はないんだからこっそりやればいいじゃないか」みたいに思っていて、全然プレッシャーがなかったんです。

 でも実際に、さあ始めようと、最初のあの有名な冒頭の一文を訳すときに、はたと困ってしまって……。どういう立ち位置で訳せばいいのかがわからなくて。そう思って他の作家の訳文を改めて読んでみると、皆それぞれ立ち位置があるんですよね。「私はここ」「俺はここ」と決めて訳している姿勢がある。

 その姿勢はたぶんその人の『源氏物語』への思いなんですよね。寂聴さんだったら女の生と性の悲しみ、情念といったものを見据えて『源氏』という作品を捉えているんだと思うし、谷崎は言葉の美しさみたいなもの、日本語の貫禄みたいなものを大事にしたかったんだと思います。そういう意味でそれぞれの『源氏』の愛し方みたいなものが見えてきました。

 でも私は作品に思い入れも愛もない。今から思えば、だから立ち位置が決まらなかったんですね。たとえば女性たちの視点に立って、女性の側から書くであるとか、もしくは恋愛というものを中心に書く、性愛を中心に書く、あるいは男性という立ち位置で光源氏という人の視点から書く。『源氏』が好きで訳した人というのは、それぞれの立ち位置、「私だったらこうしたい。これをずっと思っていた」というところを足がかりにして始めると思うんですけれども、私にはそれがまるっきりない。使命感がないので、どこにその取っ掛かりを見つければいいのかわからない。

──現代語訳でわかりやすくという意識はなかったんですか。

角田 もちろんあったんですけど、それもいろんな人が既に試みていて。たとえば林望先生の訳は、読みやすさで言えば一番だと思うんですよね。道具とか着物の説明も含めて、「後朝の文とは関係を持った次の朝のラブレターのことですよ」みたいな説明も含めて、すらっと読めてしまう。もう『源氏』の翻訳はありとあらゆることが既にやり尽くされているんですよ。わかりやすくするとしても、超訳にするのか意訳にするのか、それともプレーンな訳にするのか、どこを選んでいいのかすらわからないというのが私にとっての最大の難問、難関でした。

──そこから、どういう立ち位置を心がけたんでしょうか。

角田 ひとつには、その偉大な翻訳の列に自分も並ぼうと思うからいけないのであって、その列には入れなくていいじゃないか、と開きなおりじゃないですが、あらためてそう考えました。さらにじゃあ私の名前が挙がった理由は何だろう、ということを次に考えました。たぶんそれは、私にしかできないことがちょっとでもある、と池澤さんと編集部が考えてくださったから、私の名前が出たんだろうなと思って。

 きっとそれは正確さではない。よもや新しい解釈でもない。こんな読み方があったのかとか、こんなところに視点をとるのかというような、新しい解釈、新しい読み解き方ではないだろうな、というのが、確信としてありました。じゃあ私に求められているものは何かなと考えたときに、やっぱり読みやすさじゃないかな、と。

 私の小説はよく読みやすいと言われます。読みやすいというのは「共感する」、とかそういうことではなくて、難しい言葉をあまり使っていないので、すらすらと読めるということです。まず、それだな、と。そしてその次に考えたのは──これは私の感想でもあるんですけれども──『源氏物語』ってダイジェスト版もいっぱいあるじゃないですか。それを読んだときに、物語がちょっとわかりかけたような気にはなるのですが、でも実際作品を通読していくと、なんだか頭の中で繋がらないんですよね。物語の俯瞰した図が見えてこない、それが不満でした。

 だから何とかこの長い物語を俯瞰するような面白さ、運命がこんなにもねじれていく面白さというのを全体で見渡すことができないか。一帖ずつ読んでいって見えなくなるようなことがわかるためにはどうしたらいいか。そのためにはやっぱりわかりやすくプレーンな文章で書いていったほうがいいんじゃないかというのがひとつありました。

 言葉が悪いかもしれませんが、いわゆる「格式」がない訳でもいいじゃないかと思えたんです。「格式がない」というのはたしかに誰もやっていない、誰もそこは目指していないなと思って。「日本語の美しさ」だとか「王朝文学の優雅さ」だとか、そういうものはもうこの際ないことにしようと。とりあえずシンプルで読みやすくて、がんがん進めるものにしようというのが最終的に決めたことです。

──まさにがんがん読み進められますよね。会話文の生き生きした感じが読みやすいです。いちばん基本的なところですが、「ですます」調にするか「である」調にするか迷われましたか。今回の角田さんの訳は「である」調なんですけれど、著者本人がコメントしているみたいなところは「ですます」調になっていて、それが朝ドラのナレーションみたいに思えて、ちょっとコミカルで楽しく読めました。

角田 最初はとても迷って。「ですます」のほうが収まりがいい気がするんですけど、ただ自分がこれまで書いてきた文章として「ですます」には馴染みがないので、あえて「である」にしていったんです。私はこの翻訳をやるまで「草子地」という、地の文に、作者の声がふっと混じるという文法も知らなくて。今回訳文を見てくださった藤原克己さんにとてもよく教えていただきました。その説明を聞いて私が思い浮かべたのは、マンガとかでページをパラリとめくると、コマの外側に作者と思われるようなキャラクターが突然登場する、といったような手法なんです。その人物が「そんなマンガみたいなこと、あるわけないよね」なんてあえてつっこむような。そう考えたらわかりやすかった。

 そこからさらに訳していくなかで、聞こえてくる作者=紫式部の声がけっこううるさく感じるようになりました。この作者は本当に、作品の中からちょくちょく顔を出さずにいられない人なんだなって。最初は作者の声も「である」で揃えていたんですけど、私に聞こえた作者の声を生かすには、そこだけあえていちいち本人が顔を出して、それこそ朝ドラのナレーションのように「ずっと褒めてるけどしょうがないのよ」「そういう癖のある男なんですよね」とそのままにすることにしました。

──会話文の後で、ぽろっと「……と言ってしまうのは、いかにも頼りないことです」とか、主観が入るんですよね。「このあたりのことはくだくだしくなるので、いつものとおり省くことにします」とか。メリハリがあって面白いな、と思っていました。

角田 底本にしているテキストで「ここは草子地です」という注釈があるところを、わりと忠実に訳していきました。でもいちいちそう書いていない部分も多いんです。だから、厳密にそうしていないところだったり、草子地ではないんだけどなんとなく私が文章のリズムで作者の声にしちゃったところとか、そこはわりと厳密じゃなくごちゃまぜになっています。

──そういうところもすごく親しみがあって楽しめました。また、古文の授業で記憶にあるのが、謙譲語とか尊敬語といった文法のわかりにくさです。それが『源氏物語』をちょっと敬遠してしまうところでもあるかと思うんですけど、訳していて、そこはいかがでしたか?

角田 古文の敬語は、高校のとき私も覚えるのがすごく大変だった記憶があまりにも重くのしかかるので、やめよう、と思いました。受験からは遠ざけたくて、地の文ではほとんど使わないようにして。あと和歌が出て来るとき、せっかく夢中になっていて読み進めていても、いったん目が止まるじゃないですか。すんなりわからないことが多いし。訳し方は悩みに悩んで、一時は和歌だけ、歌人の方に短歌の現代語訳を外注することも真剣に考えました。でも当たり前ですけど、歌だって作者の個性があるから、自分の訳の中では浮いてしまうだろうなと思って、自分で却下して。私が下手でもいいから五七五七七に現代語っぽくしてみようかと思って、やってみたりもしましたが、でも途中でこれは無理だと断念して、結局オーソドックスに意味を書くことにしました。

──難しい言葉をどこらへんまで現代語っぽくするか、そのバランスはどう考えられましたか。

角田 それは本当に難しくて、加減がわからなくて。でも最低限にした気がします。たとえばよく出てくる身分違いの恋愛について、「格差婚」という言葉を使うとすごくおさまりがいいとは思うんです。でもそれは良くない気がして。

Web河出
2017年9月12日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

河出書房新社

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