心深くに降りてくる優しい言葉遣いの物語
[レビュアー] 都甲幸治(翻訳家・早稲田大学教授)
たった一人の家族である祖父を亡くした主人公は悲しみの中にいる。墓地を見下ろす崖の上の崩れそうな家に住み、拾った新聞を読んで暮らす。暗闇を好み、黒い服を着て、数日おきに黒い石炭を仕分ける。
過去の多くを忘れてしまった。今は何にも属したくないし、誰とも関わりたくない。ただ蜂蜜を舐めてこんこんと眠り、夢を見る。一度も会ったことのない、灯台に住む女性の姿を空想する。
けれども、パン屋との出会いで彼は変わり始める。誰もいない、極端に狭い静かな店内の電話で注文すると、気づけばパンが机の上に置いてある。硬く重く白いパンを三日間食べ続け、終わるとすぐに食べたくなる。そしてまたパン屋にいる。あれほどどこにも属したくなかったのに。
身も心も黒く染まっていた主人公は、パンの白さに侵蝕されていく。「ここまで執拗に食べつづけていると、自分の体の中に、でぶのパンがはっきり感じとれる」。それは、パンを通して彼に注入された生なのか。
もちろん彼が完全に生の側に戻ってくるわけではない。あくまで「おるもすと」でしかないのだ。それでも、小さな虫や犬、そして鳥たちへと、彼の心はゆっくり開いていく。
どの場所のどの時代でもない寓話として語られた本作は、児童文学のような優しい言葉遣いで、心の深い部分に降りてくる。それは、先立たれた者の苦しみを吉田がよく知っているからだ。
外の刺激も記憶も痛いから、できるだけ閉じていたい。心と体がばらばらだから、急に立ち止まると、自分が二つに裂けてしまう。けれども鼻はパンの香ばしい匂いを追うし、目はちらりと見えるパン屋の逞しい腕に惹かれる。
いつか彼はこの家を出て、愛する者と住み始めるのだろうか。それはわからない。だが、この短いお話を読み終えた人々の心に彼は住み着き、独自の命を持つだろう。そして、読者の友人になってくれるだろう。