自分が好きな海外ミュージシャンを日本に呼んだらビジネスになった “呼び屋”トムス・キャビン麻田浩×ピーター・バラカン対談

対談・鼎談

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聴かずに死ねるか! 小さな呼び屋トムス・キャビンの全仕事

『聴かずに死ねるか! 小さな呼び屋トムス・キャビンの全仕事』

著者
麻田浩 [著]/奥和宏 [著]
出版社
リットーミュージック
ISBN
9784845632633
発売日
2019/01/18
価格
2,420円(税込)

自分が好きな海外ミュージシャンを日本に呼んだらビジネスになった “呼び屋”トムス・キャビン麻田浩×ピーター・バラカン対談

[文] 奥和宏(ライター)

麻田浩さん(右)とピーター・バラカンさん(左)。40年以上に渡って日本と海外の音楽をつないできた生き字引だ
麻田浩さん(右)とピーター・バラカンさん(左)。40年以上に渡って日本と海外の音楽をつないできた生き字引だ

呼び屋トムス・キャビンを立ち上げ、様々な海外アーティストを日本に紹介してきた麻田浩さん。ライヴ・マジックのキュレイターを務めるなど、近年はコンサートの主催者としての顔も見せるピーター・バラカンさん。片や横浜、片やロンドン育ちながら、二人の音楽観や知見にはずいぶんと相通じるところがあるようだ。書籍『聴かずに死ねるか!小さな呼び屋トムス・キャビンの全仕事』にて実現した二人の濃厚な対談を、前編と後編に分けてお届けしよう。前編ではトムス・キャビンの思い出に始まり、70年代~80年代の印象深い招聘アーティストについて語ってもらった。

 ***

トムス・キャビンの思い出

麻田 最初に会ったのは、たぶんピーターがシンコー・ミュージックにいた頃だよね?

バラカン そうだね。トムス・キャビンのコンサートで、僕が初めて観たのは、たぶんデイヴィッド・グリスマンのクインテット。

麻田 じゃあ、もういちばん最初から観てるんだ。

バラカン グリスマンはものすごい衝撃でしたよ。あの頃の洋楽のコンサートの興行っていったら、まあ、ウドー、キョードー、ユニバーサル。だいたいその三つくらいがメインだったのかな。クアトロみたいなライヴ・ハウスもまだ全然なかったからね。だいたい二千人クラスくらいの新宿厚生年金とか、中野サンプラザだとか、渋谷公会堂だとか、そういうホールばっかりで。それがいっぱいになるようなアーティストじゃなければどこも呼ばないっていう印象だったんですよ。だから、「お、そうか、こういうのもありなんだ」って、すごいうれしかった。とにかくトムス・キャビンのコンサートはよく行ってた。
 全部ではもちろんないけれど。70年代はトム・ウェイツはもちろん観てるし、エルヴィス・コステロも……。エルヴィス・コステロは最初に麻田さんが呼んでたというのは、正直言って覚えてなかったの。しばらく前になんかの資料を見て、あ、そうだったんだと。

麻田 トムス・キャビンは、おおむねシンガー・ソングライターで始まったんだけど、僕、けっこうすぐ飽きちゃうんで、次にサザン・ソウルみたいなのをやったんですよ。O・V・ライト、オーティス・クレイ、そこらへんをやって、そうしたらまたちょっと面白くなくなってきた。そんなときに、たぶんビルボードだと思うんだけど、スティッフっていうイギリスのレコード会社の記事を読んで、ジェイク・リヴィエラって人を見つけて電話したんです(笑)。

バラカン いきなり? ほんと? 麻田さんのバックグラウンドは、フォークやカントリーだっていうことを、ずいぶんあとになって知ったんだけど、それを考えるとね、70年代後半のいわゆるニュー・ウェイヴの流れの人たちをやったのは、やや意外な感じがする。

麻田 そうだね。みんなに言われた。それまでのトムスのファンの人たちって、やっぱりシンガー・ソングライターとか、アメリカのカントリー系、ブルーグラス系だったりとか、そういう感じの音楽を聴いていた人がほとんどだったから、急にイギリスのニュー・ウェイヴみたいなのやってどうかなって。自分でもやるときにはすごく心配だったけど。

バラカン でも、呼んだバンドは、みんな自分が個人的に好きだったんでしょ?

麻田 そうだね。基本的に僕が好きな、自分が観たいバンドを呼ぶみたいなことだったね。

バラカン いや、トムス・キャビンの規模だったら、そうせざるを得ないでしょ。でも、あの時代に、そういう人たちを呼んで、これは儲かるものだという感じはありました?

麻田 シンガー・ソングライターは、自分としては採算が取れるんだろうなと思って始めたんだけどね。でも、それが意外と入るというのがわかると、どんどんウドーさんとかキョードーさんがやりだした(笑)。

バラカン ああ、そうか! 逆にそういうことになるんだな。じゃあ常に、大手が手をつけない人たちを先に見つけてやってかないと続かないっていう……。

麻田 そうそう。隙間産業(笑)。

麻田浩さん
麻田浩さん

パンク期に起きたパラダイム・シフト

バラカン トーキング・ヘッズを招聘したのも79年だから、『リメイン・イン・ライト』のちょっと前か。すごい早いですね。麻田さんが呼ぶのは、チャートに上がってるものよりも、本格的な音楽をやってる人たちのほう。だからビジネスマンの感覚じゃなくて、やっぱり音楽が根っから好きで呼んでいる
 ……そんな印象ですね。時期もけっこう早いし。もっと知名度が上がってきたら、それこそウドーあたりが手を出したりするんだろうけど。でも、逆にこの時期に麻田さんが呼んだことで知名度が上がった部分もあるんじゃないですか。来日すればレコード会社が少しはプロモーションする気にもなるし、ラジオ局も少しは気にするし、いろいろと露出が増えてくるからね。一般の人たちもそれまで気づかなかったものに初めて気づくきっかけにもなりますから。それはすごく大事ですよ、こういう早い時期に呼ぶっていうのは。僕はそう思う。

麻田 ほんとにそれまで僕は、イギリスのアーティストを呼んだことはなかったの。グラハム・パーカーが最初だったんですよ。だからすごい驚いた。アメリカのアーティストっておとなしいし、そんなに悪さもしないけど、イギリスのアーティストはすごかったから(笑)。それと同時に、イギリスがああいう形で音楽をやりだしたっていうのが、僕にとってはすごく新鮮だった。それまで僕のやるアーティストは、日本でもちゃんとレコード会社がついてたりとか、そういう形でレコードを出すというのが当たり前だったじゃない。それが大手に頼らず、みんなで一緒になってバスに乗ってツアーで回ったりとかね。

バラカン いや、イギリスでもあのときが初めてですよ、たぶん。スティッフはほんとに画期的なことをやった会社でね。あのジェイク・リヴィエラってのは、けっこうぶっとんだ人なんです。

麻田 そうなんですよね。ほら、僕なんか、言ってみれば呼び屋さんの中ではインディーズじゃないですか(笑)。だからそういったところにものすごく共鳴したっていうかね。それでちょっと話を聞いたら、「イギリスじゃそんなに売れないんだけども、日本を含めた世界中で売れればビジネスになるんだよ」みたいなこと言ってたから、へぇ、そういうビジネスのやり方なんだなと思って、感心した。

バラカン そうだね。もちろん独立系のレコード会社はイギリスでも昔からあるにはあったんですけど、でも、インディーズのレーベルが力を持つようになったのは、やっぱりあのパンクの時期。ラフ・トレイドっていう会社がインディーズのための全国配給を請け負った。これはもう革命的な事件だったんですね。日本でヴィヴィッド・サウンドが配給をやるようになったのはもっとあとで、最初はレーベルだけだったはず。ラフ・トレイドはね、レーベルだけじゃなくて̶̶最初はレコード店から始まってるんだけど̶̶配給会社としても一人でやってるようなインディ・レーベルをみんな引き受けて、イギリス全国のレコード店に卸してたから。おかげで、どんなにちっぽけなインディ・レーベルでも販売網を持てるようになった。それでパンクの時代から、イギリスの音楽業界はもうガラリと変わっちゃったんですね。まあそういうことだけじゃなくて、やっぱりパンクっていうのは、いちばん初期のロックンロールと同じような、ちょっと悪ガキ的な音楽で、若干暴れるようなところがある。プロモーターとしては大変だったと思うな(笑)。

麻田 うちでもいろいろなことあったからね(笑)。でもほんとに僕はね、そういうビジネスをやってるんだっていうのは、すごく感じた。音楽的にもそうだけども、ビジネス的にもそういうのってありなんだなと。

バラカン そうだよね。それまではほんとに全部が大手中心に回ってたから。さっき麻田さんが言った、「全世界で少しずつ売れれば物になる」っていう、その感覚は……新しかったんだろうな。あの時期には。

撮影:TAK岡見

リットーミュージック
2019年3月15日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

リットーミュージック

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