ロレンスになれなかった男 小倉孝保著

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ロレンスになれなかった男 小倉孝保著

[レビュアー] 小松成美(ノンフィクション作家)

◆アラブに生きた空手家の評伝

 映画『アラビアのロレンス』はイギリス軍人トーマス・エドワード・ロレンスがオスマン帝国に対峙(たいじ)するアラブ人の反乱を支援し、絶望した日々を描いた作品だ。アラブという未知の領域。そこでロレンスを凌駕(りょうが)するほど中東の渦中に身を置いた日本人を多くの人は知らないだろう。

 本書は、空手家としてアラブで尊敬を集め、指導に情熱を注ぎながらも独裁政権やオイルマネーの利権に分け入った岡本秀樹の評伝である。同時に、手あかの付いていない類いまれな中東現代史としても読むことができる。

 十六歳で空手に出会い一九七〇年に二十八歳で青年海外協力隊としてシリアへ渡った岡本は、警察学校で空手を教えながらアラブ世界へ空手を広めてやろうと野心を抱く。度肝を抜かれるのは警察学校で指導を依頼されるきっかけだ。道場に生徒が集まらず帰国を決意する彼が酔った勢いで機動隊相手に大立ち回りを演じ、隊員たちを次々に倒していく。カラシニコフの銃口にも動じない岡本がアラブの懐に飛び込んだ瞬間だった。

 八〇年代になるとカイロで大規模な武道センター設立に尽力した岡本は、国家事業とそこにある利権に心を動かされ、政府や高官との抜き差しならない関係に溺れていく。エジプトのムバラク大統領、イラクのサダム・フセイン大統領とその権力を継承する息子ウダイ。日本の外務省に蛇蝎(だかつ)のように扱われながら「アラブの内側」に立った岡本は、闇ルートの商売やカジノ経営といった空手師範とは思えぬビジネスに手を染めた。

 私生活での不倫、離婚、アラブ人との結婚にも翻弄(ほんろう)される。イラク戦争で目論見(もくろみ)が木っ端みじんになると、心を入れ替え無垢(むく)なアフリカの子供たちに空手を教える岡本に、もはや運命はほほ笑まない。

 がんを患い、生活保護を受ける彼に向ける著者の視線は沈着で、けれど途轍(とてつ)もなく温かい。十八年の歳月をかけて綴(つづ)られた真実の物語は、滑稽で愚かで愛すべき空手家の生涯を浮き彫りにする。そしてそれ以上に、ジャーナリストにとっての、人間にとっての「邂逅(かいこう)」を問うのである。

(KADOKAWA・2420円)

1964年生まれ。毎日新聞記者。著書『柔の恩人「女子柔道の母」ラスティ・カノコギが夢見た世界』。

◆もう1冊

 中村哲著『天、共に在り アフガニスタン三十年の闘い』(NHK出版)

中日新聞 東京新聞
2020年8月2日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

中日新聞 東京新聞

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