『口訳 古事記』
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生き生きとした町田節に身を浸せばアナーキーな神々が暴れ回る
[レビュアー] 伊藤氏貴(明治大学文学部准教授、文芸評論家)
「あんたらえらい顔赤いな」
「人聞きの悪いこと言うな。そんなこと言うたら俺が酒、盗み飲みしたみたいやんけ」
「疑ってすまん」
「ほんまやで。気いつけや。さっ、ほんなら、八岐大蛇が来る前に、もう一杯だけよばれて帰ろ」
「飲んでんのんかーい」
右が有名な須佐之男による八岐大蛇退治の一場面と聞いても、こんなところあっただろうかと、『古事記』既読者も首をひねるだろう。
それもそのはず、このくだりは町田康による創作で、原典にはない。一方で、「千葉の 葛野を見れば 百千足る 家庭も見ゆ 国の秀も見ゆ」という応神天皇の歌は、「葛野サイコー!」のひと言で括られる。
だから本書を「翻訳」というのはいささか憚られるかもしれない。町田による改変は、主にセリフ部分が関西弁まじりの町田一流の節回しになり、原典には登場人物の行動しか書かれていないところに、動機や心理が書き込まれる。
セリフについてはたとえば、『古事記』の舞台は西日本なのだから、関西弁の方がふさわしいとか、独特の町田節は異化効果を狙ったものだとか、心理の挿入は近代小説としての書き直しだとか、いろいろと論じることもできるだろう。
だが、実際に一読すれば、そんな堅苦しいことはどうでもよくなる。
そもそもどんな「訳」であれ、創作が入り込まないということはない。『古事記』の原文は、基本的には変体漢文で書かれており、われわれが古文として目にするものは既に本居宣長以来の訓読という操作が施されているのだ。いや、それ以前に、稗田阿礼らが語り継いできた物語を太安万侶が漢文で筆写したときに口語は一度死んだのだ。
生き生きとした口語を取り戻した町田節に身を浸せば、神々の暴れ回るいにしえの世のありさまにすっかり魅了されるだろう。