『吉右衛門』
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<書評>『吉右衛門 「現代」を生きた歌舞伎役者』渡辺保(たもつ)著
[レビュアー] 長谷部浩(演劇評論家)
◆今を生きる人間の苦渋
演劇評論の泰斗が、二代目中村吉右衛門、生涯の当たり芸について正面から論じる。本文中には吉右衛門のインタビューは見当たらず、過去に書かれた芸談や劇評の引用も極めて少ない。あくまで、劇評家渡辺保が味到してきた舞台への記述で埋められている。
一昨年、亡くなった歌舞伎界を代表する名優が、昭和23年の初舞台から、祖父初代の名跡を継いだ襲名、そして最後の舞台となった令和3年「楼門五三桐(さんもんごさんのきり)」まで。現代の価値観からすれば、時に違和感を感じる歌舞伎の台本を掘り下げ、その一生を賭けて、「現代に稀(まれ)な古怪さを実現すると同時に、そこにリアルな人間的な感情を繰り込むことに成功した」とする。「勧進帳」の弁慶から「河内山(こうちやま)」の河内山宗俊(そうしゅん)まで、荒事や世話物、復活狂言をも扱いつつ、著者の評価軸は鮮明で揺るぎがない。
根幹にあるのは、吉右衛門が、あくまで「実事師」であるとの確信である。実事とは、今を生きる人間の苦渋、現実と立ち向かう役柄をさす。「仮名手本忠臣蔵」七段目、祇園一力茶屋の大星由良之助が代表だが、その色気、揺るがぬ意志を身体化し、舞台にのせ、観客の心を揺さぶった。
実事の芯となる役々「熊谷陣屋」の熊谷、「盛綱陣屋」の盛綱、「石切梶原」の梶原は、読み進むうちに吉右衛門の人生と重なってくる。現代に生きることを宿命づけられた歌舞伎役者。時代との距離感を引き受けて、苛酷な生を背負って立つ。その勇壮にして繊細な舞台が筆力によって蘇(よみがえ)ってくる。
私は卓抜な舞台描写に酔っていった。次第に、舞台に向かって客席にいる渡辺保の意識の流れもまたドラマとなっていると気がついた。たとえば「逆櫓(さかろ)」の樋口。「その溢(あふ)れる迫力で、平和な漁村の貧乏家屋の一隅を、戦乱の血なまぐさい風が吹き抜けていくようであった。気がついてみれば庶民の一室、しかし夢中で見ていると劇場中に戦場の風が吹き荒れて、この世からの地獄であった」と綴(つづ)る。こうして吉右衛門の舞台は、批評文芸として、歴史に刻まれることになった。
(慶応義塾大学出版会・3520円)
1936年生まれ。演劇評論家。著書『女形の運命』など多数。
◆もう1冊
DVD BOOK『初代 二代目 中村吉右衛門の芸【播磨屋物語】』(小学館)