『羊の怒る時』
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「人が人として扱われなくなる場面」克明に焼き付けた記録文学
[レビュアー] 倉本さおり(書評家、ライター)
帰るべき家は跡形もなく潰され、さっきまで言葉をかわしていたはずの家族がつめたい骸となって横たわっている。まともに目を向けられないような理不尽に襲われたとき、人の心はどんなふうに動き、あるいは流されていくのか――。
今からちょうど百年前、関東一帯が大地震に見舞われ、東京は火の海と化した。突然の惨禍に人びとは激しく動揺し、根拠のない情報があちこちで飛び交うなか、“朝鮮人が放火して歩いている”といったデマによって多くの朝鮮人が暴行を受け殺された。
江馬修『羊の怒る時 関東大震災の三日間』は、関東大震災の翌年から連載が開始された非常に貴重な記録文学だ。今年八月、震災から百年の節目に合わせて文庫化され、二ケ月で重版が決定。パレスチナ問題をはじめ社会情勢が悪化していくなか、「よくぞこういう本を復刊してくれた」と各所で賞賛の声が上がっている。
作家自身の体験に基づき、地震発生から三日間の出来事を克明に記した本著の主眼は、虐殺の現場を描くことではない。巻末エッセイにある石牟礼道子の言葉を借りれば、むしろ「群衆の行動がいかようにつくり出されてゆくか」を精緻に描き出す点にある。
「人が人として扱われなくなる場面が焼き付けられている。現在の入管問題にも通ずるものがあり、百年経っても色褪せない。時代を超えた迫真性を湛える名著です」(担当編集者)
例えば、人伝に聞いた噂として出回っていたものが、次の機会には「事実」として人びとの口からまろび出る。それらを信じていない語り手自身も、現場を支配する興奮を前に疑心暗鬼に陥り、朝鮮人に対する理不尽な暴行の現場を結果的に見過ごしてしまう。
「ガザ問題もウクライナ問題も、日本にいるとどこか遠い出来事のように思えてゲームのように語る人もいますが、この本の読者は、不安にかられて消耗し判断力を奪われていく語り手の心の動きを追体験することになる。丹念な事実検証に基づいた西崎雅夫さんの解説と併せ、歴史を正しく認識し、社会と向き合って考えるきっかけになってくれればと思います」(同)