「身近な死」と自分にとっての「物語」

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のち更に咲く

『のち更に咲く』

著者
澤田瞳子 [著]
出版社
新潮社
ISBN
9784103528326
発売日
2024/02/15
価格
2,200円(税込)

「身近な死」と自分にとっての「物語」

[レビュアー] たられば(編集者)

澤田瞳子『のち更に咲く』

 ***

 本作は、平安中期(寛弘5年/西暦1008年頃)、京の街を荒らし回っていた伝説的な盗賊団「袴垂」一党と、絶対安定政権に手をかける藤原道長と正妻・倫子、まさにいま『紫式部日記』を描かんとする紫式部(藤式部)とその舞台である土御門第、天才歌人・和泉式部と最後の夫・藤原保昌といった豪華なキャスト勢に、「ある貴人の出生の秘密」がからむという盛りだくさんな筋立てを、背骨の通った歴史知識と硬質で美麗な修飾が持ち味の澤田瞳子氏が鮮やかな手さばきで一冊にまとめた傑作でした。

「袴垂」と聞いて「おっ!」と反応するのは『宇治拾遺物語』まで細かくチェックする濃い目の古典文学ファンか、曲亭馬琴『四天王剿盗異録』好きか、でしょう。

 後者は、蘆屋道満(道魔法師)から妖術を伝授された袴垂(藤原)保輔と源頼光四天王が対決するという痛快劇で、日本文学史において「悪役としての袴垂」がどういう位置づけなのかがよくわかる作品です。

 この「悪役」やその一党を、単なる敵役、いわゆるモブキャラとして描かないところが、澤田氏の腕の見せ所。氏のこれまでの著作、直木賞を獲った『星落ちて、なお』や、本作と近い時代、近い環境を描いた『月ぞ流るる』のように、激しい光を放つ人物や出来事、歴史的事実を丁寧に表現しつつ、そのそばに確かに存在していた「誰かの人生」を細やかに、絶妙に記しております。

 本作の主人公である「小紅」もそのひとり。父や兄の罪を背負いつつ、下臈女房として最上級貴族に仕える29歳・未婚の小紅は、倫子でもない、中宮・彰子でもない、紫式部でも和泉式部でもない、「自分の人生」を抱えて自らの宿命と対峙します。

 作中何度か差し挟まれる美しい情景描写、たとえば「足音を殺して妻戸を開ければ、中空には刀で断ち切られたような半月が高く昇っている。微かにたなびく雲が夜空の高さを一層際立たせ、冴えた月光が広縁に長く勾欄の影を落としていた」(本書・第五章「残り香」より)は、そんな(誰でもない)小紅が見た、かけがえのない世界の一瞬を切り取った描写なのです。

 ここまで書いて、ああそうか、たとえば『紫式部日記』冒頭の、あの美しく奏でられたクラシック音楽のような秋の土御門第の描写も、たしかに「紫式部から見えた世界の一描写」なのだなあと、今さらながら実感しました。

 ちなみに2024年のNHK大河ドラマ『光る君へ』の序盤、主人公まひろ(紫式部)と三郎(藤原道長)の逢瀬を演出し絆を深めるにあたり、重要な役割を担う散楽一座(実は盗賊一味)の座頭の役名は「輔保」でした。これは明らかに「藤原保輔」を意識した名づけであり、分かる人だけ分かる演出でにやりとします。

 一点、重要なお願いがあります。本書を読み終えた方は、ぜひもう一度、冒頭部分を読み返していただきたい。本書のタイトル『のち更に咲く』は、冒頭に掲げられた(『和漢朗詠集』にも採られた)「菊花」(元シン)という漢詩からとられています。

「これ花の中に偏に菊を愛するにはあらず

 この花開けてのち更に花のなければなり」

(私訳/わたしは、あらゆる花の中で特にこの菊を頑なに愛している、というわけではないのです。ただ、数ある花の中で、菊が咲くと、もうその後には咲く花がないから〔大切に思うもの〕なのです)

 広く知られるとおり、菊は秋に咲きます。一年のうち春、夏、秋と、貴族たちの庭を華やかに彩った花々の中で、菊はその年の最後に咲いて、その後に寒くて長い冬を迎えることになります。

 この漢詩は『源氏物語』「宿木」の帖にも引かれていて、宇治十帖での貴公子のひとり匂宮が、中の君へ呟くかたちで登場します。

 美しく艶やかに咲く菊を特に愛でるのは、その咲きぶりに「一年の終わり≒人生の最期と一瞬のかけがえのなさ」を感じさせるからではないか、とこの詩は説いているように思えます。

 個人的には、重要な登場人物のひとりが「空蝉」という名であることも印象深かったです。これは『源氏物語』の、夜着を残して部屋を抜け出したあの有名な女人というよりも、樋口一葉の、

「とにかくに 越えてを見まし 空蝉の

  世渡る橋や 夢の浮橋」

を踏まえているのかなと思いました。現世の儚さとそれでも生きてゆく道行きへの覚悟を示した歌ですね。

 本書には「ある身近な人の死とその人生の意味」が底流します。人生を一輪の「花」に喩えるならば、身近な人の「死」に物語を見出し、自分の人生にその意味を捉え直すことは、「のち更に咲く」と言えるのですね。人生の節目で読み返したい一冊です。

新潮社 波
2024年3月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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