『ゆらぐ玉の緒』
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自分。現在。そんな閉域が見事に解きほぐされていく
[レビュアー] 都甲幸治(翻訳家・早稲田大学教授)
歳を重ね身体が衰えて初めて見えてくるものがある。気圧の変化や緩やかな上り坂を鋭く感じ、植物の芽の青臭さに命を思う。随想とも小説ともつかない本書で、古井は一行一行に現在の生を刻みこむ。ただしその現在には、遠い過去の記憶さえ含まれる。
たとえば収録短篇「人違い」はどうだろう。ふと立ち寄った飲み屋の女性に主人公はこう言われる。あなたは東京を焼いた五月二十四日の空襲の最中に私が握り飯を渡した、あの少年ではなかったか。彼は思う。確かにもらった。でも誰がくれたかは見ていなかった。遠い時を越えて感動の再会、と思いきや、出遭ったはずの場所が合わない。ならばただの人違いなのか。
女性は言う。「あんな夜には誰でも同じような顔、顔が同じなら同じ心になるんですものね」。そして握り飯をもらった二人の少年が重なる。主人公の身体を通して、女性はあのときの子供の感謝の言葉を聞く。それはまた、空襲の一年後に彼女が亡くした息子の声でもある。
記憶の中で別人が一つになる。死者が蘇る。そうした現在と過去が重ね書きされる瞬間を呼び起こすのはいつも、花々の姿や匂い、あるいは虫や鳥たちの鳴き声だ。それらは変わらずそこにあり、不意に我々の意識に侵入してくる。そのとき、複数の場所と時間は一つに貫かれてしまう。
文中で古人の歌が度々言及されるのも、それらが本来、自然と想い、そして過去にその場所で歌を詠んだ人々を結びつけるものだからだろう。すなわち、本作は古典と同じ構造を持っているのだ。だが和文脈で書かれた古井の文章は、新鮮な言葉の試みに満ちている。それは彼が西洋語と和漢の典籍に同時に向き合い続けた成果だろう。
本書を読んでいると、自分や現在という閉域が見事に解きほぐされていく。その先に開けている場所は、さて、名前がわからない。ただそこには読むことの喜びだけがある。