【聞きたい。】岸田秀さん 『唯幻論始末記 わたしはなぜ唯幻論を唱えたのか』
[文] 桑原聡(産経新聞社 文化部編集委員)
■特異な思想家「人生最後の本」
42年前に刊行した『ものぐさ精神分析』で、本能が壊れた人間は、幻想に基づいて性行動に走り、歴史は現実条件ではなく幻想によって動いているという唯幻論(ゆいげんろん)を唱え、読書人を仰天させた。5年前、80歳のときに『絞り出し ものぐさ精神分析』を刊行して仕事に区切りを付けたつもりでいた。ところが、「もやもやした気分が解消されず」再び筆を執ることになった。
唯幻論の出発点には母子関係が横たわっていた、と岸田さんはたびたび書いてきた。小さなころから神経症や人格障害のさまざまな症状に苦しんできた岸田さんは、その原因を突き止めようとフロイトの著作を読みあさった。そして、養子にとった岸田さんの意思をおもんぱかることなく家業(劇場)の跡継ぎにしようとした母の過剰な愛が原因だと考えるようになった。
「私はこのことを幼いころから直観的に知っていたと思われますが、それを認めてしまうと、私を愛してくれる母との関係が崩れてしまう。そこでこの直観を無意識へと抑圧してしまった。この自己欺瞞(ぎまん)がさまざまな症状を引き起こしていたのです」
頭ではそう認識し、これを克服しようと、母の悪口を繰り返し書いてきたが、それは徒労に終わった。
「母によって植え付けられた〈お前のためだけに生きてきた〉という観念に抵抗し、追っ払おうとしてきましたが、85歳の現在も消えることがありません。母は私が大学卒業直前に死んだにもかかわらず…」。岸田さんは諦観に満ちた表情で語る。
「人生最後の本」と称する本書で母の悪口を繰り返したところで、岸田さんは母によって植え付けられた観念から自由になれないことを承知している。それでも書かざるをえなかったのだ。この不幸な母子関係があったからこそ、フロイト理論を基礎とした唯幻論という独創的な仮説が誕生した。本書は特異な思想家の心の叫びである。(いそっぷ社・1800円+税)
桑原聡
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【プロフィル】岸田秀
きしだ・しゅう 昭和8年、香川県生まれ。早稲田大文学部心理学科卒、同大大学院修士課程修了。和光大名誉教授。『二十世紀を精神分析する』などの著書も。