『一日一戒 良寛さん』
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「話し方」ひとつで印象が変わる。良寛さんが残した3つのことば
[レビュアー] 印南敦史(作家、書評家)
『一日一戒 良寛さん──清々しい人になる90の教え』(枡野俊明 著、自由国民社)の著者は、曹洞宗徳雄山建功寺住職、多摩美術大学環境デザイン学科教授、庭園デザイナー。
過去にも『リーダーの禅語』(枡野俊明著、三笠書房)など数冊をご紹介したことがありますが、新刊である今作のテーマは「話し方」。
その根底にあるのは、話し方こそ、人に好印象を与えるための重要な要素だという考え方です。
そして、「話し方のコツはどこにあるのだろう?」と考え続けた結果、行き着いたのは良寛さんの存在だったのだとか。
ご存知のとおり、日本人にとってもっとも馴染みが深く、多くの人に愛されてきた禅僧。そんな良寛さんは、90もの「戒語」を残していたというのです。
90の戒語をじっくり読み返してみて、驚きだったのはひとつとして古びているものがないことでした。遠くときを隔てた現代にも、みごとに通用するものばかりなのです。
むしろ、言葉が軽く扱われ、話し方が野放図になっている「いま」に向けて、泉下の良寛さんが警鐘を鳴らしているとしか思えないほど、その一つひとつがみずみずしい時代性をもっています。(「はじめに」より)。
そこで本書では、日常のさまざまな場面、局面で活用できる良寛さんのことばを著者が厳選しているわけです。
きょうは第5章「良寛さんの自戒20話『伝え方』ひとつでいい結果に変わる」のなかから、3つのことばをピックアップしてみたいと思います。
学者然とした話し方
対話は“講義”ではありません
「~然とした」という表現は、「いかにも~のような」という意味。たとえば「学者然とした」といえば、「いかにも学者のような」ということになるわけです。
ところで学者、とりわけ教壇に立つ学者の仕事は、いうまでもなく学生を教えることです。その位置関係には“教える側”と“教えられる側”という、厳然たる区分けがあります。
ですからそれが身についていると、通常の対話においても無意識のうちに、教える側の位置に立って話すことになったりするもの。
つまり一方的に、多少なりとも「上から目線で話す」というかたちになってしまいがちだということです。
しかしそんな場合、対話相手は教えられる側ではないのですから、いい気分はしないはずです。「あなたに、教え、諭される筋合いはない」と思われても仕方がないということ。
また、理詰めの語り口も学者の特徴かもしれません。それが講義であったとしたら理詰めの展開も当然でしょうが、日常の対話で同じようなことをされたら、相手が窮屈に感じたとしても不思議はないわけです。
ユーモアやウィット、冗談や軽口など、“あそび”がない対話ほど無味乾燥でおもしろみのないものはないもの。そして最近は笑いを誘ったり、どっと沸かせたりする巧みな講義の話術を心得ている学者も増えています。
そんな時代だからこそ、「学者然」とした方々も、そろそろ話し方を変えてみる頃合いではないかと著者は記しています。(172ページより)
悟ったかのような話ぶり
大悟していないのに悟ったかのような話ぶりは鼻につきます
大悟とは、きわめて高い心の境地に達しているということ。そして著者によれば、良寛さんは間違いなくその境地におられた方。
しかし悟りくささからはもっとも遠くで、清貧のうちに、泰然とかまえ、恬淡(てんたん)として生きた禅僧だったそうです。
そんな良寛さんに強く戒められそうなのが、「自分はいかにもものごとの本質、真髄がわかっている」といった話し方をする人。
たとえば「人生なんて、所詮、一幕の茶番劇だ」というようなことばは、ニヒル、シニカルだと感じられるかもしれません。
とはいえ、こんな台詞を人生半ばの若い人が吐いたとしたら、かなり鼻につくはず。少なくとも、そんな斜に構えた態度が好かれることはないでしょう。
ここで著者が引用しているのが、「露と落ち 露と消えにし わが身かな 浪速のことは 夢のまた夢」という詩歌。
豊臣秀吉の辞世とされる(違ったいいまわしもあり)ものだといいますが、人生の終焉を眼前に見据えながら詠んだからこそ、悟りくささを感じさせず、儚さも素直に伝わってくるわけです。
「人生なんて~」というようなことばとは明らかに違うわけです。そもそも「~なんて」といういいかたは、「恋愛なんて」「結婚なんて」「友情なんて」というように、総じて「悟りくさき話」につながるもの。
ちなみに禅の世界には、さも悟っているぞといわんばかりの言動のことを言い表す「悟臭」ということばがあるといいますが、それは禅がもっとも嫌うものなのだそうです。
そうしたことを踏まえたうえで、「~なんて」を封じてみれば、それだけで悟りくささは大幅に減るものだといいます。(174ページより)
茶人のような話し方
茶人でもないのに茶の湯に精通しているような話し方はいただけません
良寛さんの時代において、茶人は文化人の象徴というべき存在。そのため、茶人にかぶれた話し方をする人があとを絶たなかったのかもしれないと著者は分析しています。
たとえば「お茶のお点前というものは~」「お茶室の誂えは~」「茶道具というものは~」など。つまりは茶の湯に精通していることを示し、自分のステイタスを高めようと考えたのでしょう。
早い話、自分はひとかどの人物であると見られたかったということ。
しかし、侘び茶を完成させた茶聖・千利休はこう言っているそうです。
「茶の湯とは、ただ茶をわかし、茶を点てて、飲むばかりなることと、知るべし」(177ページより)
このシンプルさが茶の湯の奥義であり、そのシンプルさをどこまでも極めていくことは自己研鑽の道。そして自分の生き方の模索である。利休はそう訴えているように思われると著者は言います。
茶の湯の知識をひけらかすこととは、まったく相容れない姿勢がそこにあるわけです。
そしてそれは、なにごとにおいても同じ。いまの世の中でも、「(絵画の)印象派というものはね~」「バッハの音楽の本質は~」「フレンチ(フランス料理)の命はソースにあって~」などと、いかにも自分が通であるかのように話す人はいるものです。
しかし対象がなんであれ、自分が惹かれるもの、好きなことがあったら、ただそれを楽しむことに一生懸命であればいいわけです。むしろ、余計なことは語らないほうがずっと美しいもの。
本物の通人は、概して寡黙なものだと著者は考えているといいます。(176ページより)
本書を活かすことで、話し方は確実に変わると著者は断言しています。ただし、急ぐべきではないとも書き添えてます。あくまでも、「一日一戒」。朝にどこかのページを開き、そこにある「戒」をその日に実践していくことが大切だということ。
そうすれば、良寛さんを象徴することばである「清々しさ」を手にいれることができるというのです。
すなわちそれは、一歩、良寛さんの清々しさに近づけるということでもあるのでしょう。
Photo: 印南敦史
Source: 自由国民社