社会学、あなたはどこから?――『社会学はどこから来てどこへ行くのか』スピンオフ

対談・鼎談

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社会学、あなたはどこから?――『社会学はどこから来てどこへ行くのか』スピンオフ

[文] 有斐閣

社会学は、どこから?

永田 この話をおさいさんに聞きたかった。社会学っていつ知った?

齋藤 わたしね、高校生のときに、摂食障害で体がぼろぼろになっていて。

永田 かわいそうに。かわいそうって変な言い方やけど、大変やったね。

齋藤 一発勝負の受験はできへんと思っていて、普段からいい成績を取っておいて、大学は推薦入試で入ろうと決めていたんです。しかも、わたしたちの世代って昭和からの時代の変わり目で、平成のはじめくらいに高校生をやっていたと思うねんけど、うちは親が厳しかった。親の言う大学進学の条件みたいなのがあって、まず国公立がダメ。

永田 国公立ダメ?

齋藤 たぶん結婚に差し障りがあるから。だから、まず国公立ダメで、東京ダメ、お父さんとお兄ちゃんよりもいいところに行ったらダメ、法学部ダメ、経済学部ダメ、浪人もダメ。

永田 えええ……。

齋藤 残された可能性が、父親と兄が関大出身なので、関関同立で文学部か社会学部しか選択肢がなくて。どっちも行けた。本当は同志社の法学部に行きたかったんだけど、関大の社会学部か文学部か推薦で選べっていうときに、どっちも成績的には行けたんやけど、友達から、「私、国文行きたいから譲って」って言われて、じゃあ社会学にしようって。

永田 めっちゃ消去法やんね(笑)。

齋藤 でも、高3のときに、推薦の面接のあと、課題図書5冊から、夏休みの間に2冊読みなさいって選ぶことになって、それが小川博司の『音楽する社会』と、上野千鶴子の『私探しゲーム』やって。それを読んだ瞬間に、わたしは「当たった、当たった」って。それで、社会学を知りました。

永田 小川先生の研究おもしろいもんね。

齋藤 おもしろかった。

永田 ええ話ですな。いきなりおもしろいね。でも、やっぱり関西は社会学部のある大学が多いんだよね。わたしも関西に行ってびっくりしたんやけど、学部であるんよね。

齋藤 学部でありますね。

永田 だから非常勤の口もそこそこあるんだよね。

齋藤 そうそう。そうなんですよ。

永田 東京には社会学部がそんなにないから、非常勤先を探すのにけっこう苦労する。それに比べて関西は社会学さかんやなと思ってね。

齋藤 関関同立に全部ありますね。

永田 全部あるもんね。それは思った。そういう土壌の違いはあるよね。
 わたしはね、社会学って大学に入学してもまだ知らなかった。だいぶひどいと思うけど(笑)。出身が九州なんだけど、うちの母親がけっこう進歩的な人で、父親もそれに同調していたから、進学とかに関して細かいことはまったく言われなかった。わたしは、もともと理系なんですよ。だから、統計とかも抵抗なくやれたっていうのもあったんだけど。
 高校のころから、医学部を目指していたのね。ただし、すんなり医学部入るほど成績は良くはなかったのよ。それで、センター試験でしくじったんですね。私立はセンター試験関係ないから、医学部を受けていたんだけど、国立はこれはちょっと無理だなと思って、ばーって調べて。国語とかは満点とっているから、5教科6科目のうちの3科目選択だったら戦えるかな、と。どこかいいところないかしらの「消去法」で探した進学先が東京学芸大学。当時はセンター試験3科目で受けられて、しかも、2次試験が小論文のみだった。他の大学もちょいちょい受かっていたんだけど、東京で受かったのがそこだけだったわけ。二浪していたし、これを人生の転機と考えようと思って、何も知らないで、ただ東京だっていうだけの理由で東京学芸大学に行ったの。そしたらそこに山田昌弘とか、浅野智彦とか、野口裕二とか、すごい先生がむちゃくちゃいっぱいいて、授業が超おもしろい。

――わたしも同じパターンでした(笑)。

永田 だよね。あの頃の学芸大って、その直前まで東大にいた蓮見音彦が、たしか学長だったんだよね。だからか、優秀な社会学者がいっぱい集まっていて、授業がすごくおもしろかった。それで「これは……」と思って。ちょうどわたしが1994年の入学で、なかでも山田昌弘が学部の3年生のときに『結婚の社会学』、その数年後に『パラサイトシングルの時代』を出すようなタイミングで、もうノリノリに乗っているとき。そのおもしろさに惹きつけられて山田ゼミに入ったっていうのが直接的に社会学を勉強することになったきっかけなのね。
 だから、わたしなんて社会学の本をはじめて真面目に読んだのは、学部3年生の真木悠介ですよ。それまでまったく何もやっていなくて。授業も超適当に受けていたし勉強まったくしないし、バンド活動ばっかりやってたんだけど、それでも社会学の成績はよかったんだよね。「これは、社会学けっこう向いているんちゃう?」とか勘違いして、院に行くことにしたっていう。当時は就職氷河期だったというのもあり……。

齋藤 氷河期やった。

永田 真っ最中。

齋藤 そうなんですよ。

永田 しかも二浪してるし、一般企業は絶対受からへんわ、と。それで、大学院に進学することにした。おさいさんは、なんで院進にしたん?

齋藤 本当はアパレル企業に勤めたかったんだけど。

永田 絶対向いてると思うわ。センスいいし、服とかかわいいもん、いつも。

齋藤 でもね、震災のあとやって。

永田 阪神・淡路の。

齋藤 そう。関西のアパレルってポートアイランドに本社をおく会社がいくつかあって、震災の爪痕が残っているなかで就活していたけど、全然採用がなかった。ワールドっていう大手の本社も液状化しているなかに建っていて。ポートライナーも走ってなくて、代替バスに乗って就活行っても、「もう今年はあまり採らないです」みたいな感じやって。

永田 そりゃそうだよね。

齋藤 20社受けて、名古屋のアパレルに一社だけ営業職で受かったんやけど、企業体質がすごく古かったんです。当時の大手アパレルってものすごく体質が古くて、「これ、わたしなんか間違ってんちゃうかな」とか思って。
 それに、卒論がものすごく楽しくなってきたのもあって。1月とか2月のギリギリに、やっぱり院進するって決めて。2年だけ行くつもりやったんやけど、なんかよくわからんけどこのまま来てしまったっていう。

有斐閣 書斎の窓
2019年9月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

有斐閣

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