リシャール・コラス「茶室」 刊行記念エッセイ「外国人に、日本人の心は描けるか」

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茶室

『茶室』

著者
リシャール・コラス [著]/堀内 ゆかり [著]
出版社
集英社
ジャンル
文学/外国文学小説
ISBN
9784087808988
発売日
2020/03/26
価格
2,420円(税込)

書籍情報:openBD

リシャール・コラス「茶室」 刊行記念エッセイ「外国人に、日本人の心は描けるか」

[レビュアー] リシャール・コラス(小説家・シャネル株式会社代表取締役社長)

外国人に、日本人の心は描けるか

 日本に暮らして45年、いまだにこの質問には心が乱れる。
「外国人に、日本人の心が描けるのでしょうか」
 答えを模索しているとさらに複雑な問いを投げかけられる。
「外国人も日本人と同じ感情を味わえるのでしょうか」

 私は日本とは根本的に異なるビオトープで育ち、数千年の文明が生んだ文化規範に基づく教育を受けた。日本も同様に数千年の文明を誇るが、両国の距離は遠く、歴史的に重要な交わりのあったことは近代までほとんどなかった。フランス人の私に、ある風景や人の表情、芸術作品を前に、また特定の状況下で、日本人と同じ心の高揚を感じられるのだろうか。
 両者の違いが単に構文的な表現の違いによるのなら、学習するだけで、つまり他者を理解するだけで、同じ感動を共有できるのか。それとも双方のDNAの配列の違いが、外見の差異はもとより、どれほど熱心に研究して理解したいと希求しても、埋められない底知れぬ感情の溝を生んでしまうのか。『茶室』を書いたのはこうした問いに答えたかったからだ。主人公「R」は、日本文化の幽玄を象徴する茶道に挑みながら、日本人女性、真理子への絶対的な愛に捉われる。その愛は、理性や見識や常識を取り払い、彼を迎え入れた日本と母国フランスにある、あらゆる社会的な規範をはねのけてしまう。
 肝心なのは、Rが明確に体系化された点前(てまえ)を懸命に身につける“論理的な習得段階”を経て、茶道の精神的領域にたどりつけるのかということだ。Rは時間とエネルギーを注ぎ、物質的な投資も厭(いと)わず、伝統建築の茶室を建てる。彼は文化を剽窃(ひようせつ)するマネの得意な猿であり続けるだけなのか。それとも賢者となって「茶の道」の深遠な奥義(おうぎ)を会得し、彼が執拗に「完璧」と称する高みに到達できるのか。Rは体に染みついた論理的思考で概念的に理解できても、その論理性ゆえに、点前を行うときの日本人の心の機微はなかなか摑めない。
 一時期、茶道を学んでいた私は、稽古の途中に、身じろぎできなくなったことがある。それは単なる感覚的なもので、魂が動いたわけではなかった。思考を働かせれば、たとえば茶道の極意のひとつである「一期一会」を論理的に説明できるが、その本質である、一瞬の尊さというものが感得できない。それなのに私は本書で、「作法」と「精神の修養」から成る茶道の、浅い知識をひけらかすという身のほど知らずの危険を冒している。ベテランの茶人なら誤りにいち早く気づくだろうし、愛好者ならこの洗練された芸術について吸収すべき要素をひとつやふたつ見つけてくれるかもしれない。
 日本文化の「道」のひとつを緻密に正確に学び、その美学を探りながら日本人の心に近づこうとするR。同時に真理子へ無限の愛を注ぐが、彼女の高貴な家柄に阻まれ、常軌を逸した不条理の世界に引きずり込まれていく。一方で、情熱の発露である互いの感情表現の、越えられない壁に突き当たる。
 Rと真理子の「コード」は本質的に異なりすぎて、互いの感情をうまく伝えることさえできない。フランス語に訳せば「aimer(エメ)」に集約される、日本語の「好き」と「愛する」のニュアンスの差にRは戸惑うが、この意思疎通の壁は単に用語レベルの問題なのか。「好き」と「愛する」が示す感情の重みに差はあるのか。日本女性はどんなとき「好き」と言い、どんなとき「愛する」と言うのか。その使い分けによって、感情の度合いが示されるのだろうか。
 本書の翻訳者から、あるシーンで真理子が言う「aimer」は省いたほうがいいと言われた私は、意味論よりもさらに大きなジレンマに直面した。彼女いわく、その状況で日本人女性が「aimer」と言うのはあり得ないそうだ。フランス語版で真理子がこの言葉を使うのはとても自然だが、日本語版だとしっくりこないらしい。日本の女性が「aimer」と言わないのは羞恥心なのか、慣習なのか。それとも単に、感情そのものがフランス人女性とは異なるせいなのか。
 自身の恋愛体験でもこうした違いに直面したことがあり、ふたりの愛情表現に投影してみたいと思った。物語の中の彼らは、究極の愛の形として、極めて日本的なある手段に頼る以外に互いの感情表現の溝を埋める術(すべ)がない。ここでも私は日本人女性の真理子に完全に憑依(ひようい)できず、彼女が発する言葉の大半は、フランス人女性の霊媒師が告げたかのようである。
 この不手際のせいで、私がこの小説を通して見つけようとした答えが否定に傾いてしまった。やはり、外国人に日本人の心情など描けないのだ。ある状況で外国人が心に受けるインパクトは、日本人が感じるものとは根底から異なるからだ。

 『茶室』を書き進めるうちに、脇役でしかなかった人物が、中心的な役割を担うようになった。彼の存在がなければ物語の基盤はぐらつき、一貫性を欠いたものになっただろう。書き始めてすぐに、熱に浮かされた恋人たちの閉塞的な世界に、彼のような調整役が必要だと気づいたのだ。彼こそが登場人物の誰よりも日本人的であり、私はもしかすると、この男性を通じてのみ、日本人の心のいくつかの側面を描きだせたかもしれない。物語の最後の言葉を洩もらすのもこの人物である。不行き届きの点も多々あるだろうが、彼のこの言葉を通して、暗中模索しながらもどうにか私が日本人の心を理解できたということが読者の方々に伝わることを願っている。

翻訳:東野純子

リシャール・コラス
1953年フランス生まれ。パリ大学東洋語学部卒業。1995年よりシャネル日本法人社長。2018年よりシャネルSARL(スイス)へ赴任。シャネル合同会社会長も兼務。小説家としても活躍し、著書に『旅人は死なない』『波 蒼佑、17歳のあの日からの物語』他。

青春と読書
2020年5月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

集英社

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