「セクシュアル・マイノリティだけでなく多様性について言葉を持たないヘテロ・セクシュアルをも救いたかった」~『愛と性と存在のはなし』出版記念 赤坂真理×鈴木涼美 初顔合わせ異色対談
対談・鼎談
『愛と性と存在のはなし』
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「セクシュアル・マイノリティだけでなく多様性について言葉を持たないヘテロ・セクシュアルをも救いたかった」~『愛と性と存在のはなし』出版記念 赤坂真理×鈴木涼美 初顔合わせ異色対談
[文] アップルシード・エージェンシー
赤坂真理さん
「セクシュアル・マイノリティは存在しない」という衝撃の宣言から、「なぜなら、自分の中を本当によく見たら、『ひとり1マイノリティ』ほどに人間は多様だから」ということを実際に解き明かしていく圧巻の『愛と性と存在のはなし』。
異性間恋愛の人こそ実はセクシュアル・マイノリティなのではないかと昨今のジェンダー論やLGBTQ議論に新たな波紋を投げかけた話題作『愛と性と存在の話はなし』(NHK出版新書)は、作家、赤坂真理さんが6年ぶりに上梓した新書である。
出版を記念して『身体を売ったらサヨウナラ 夜のオネエサンの愛と幸福論』(幻冬舎)で鮮烈なデビューを果たした後、『おじさんメモリアル』(扶桑社)などで世の中を仕切る男性に切れ味の鋭いエッセイを発表し続けている鈴木涼美さんと、初顔合わせとなるトークイベントを赤坂真理さんが所属するアップルシード・エージェンシーがまとめた。
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愛の対象と性の対象のずれ、ヘテロの生きづらさなど
赤坂真理(以下、赤坂) いろいろな人と話してみると、愛や恋の対象と性の対象が違うということはよくあることで。それが深刻な悩みにもなりうる。それからよくよく聞いてみると、愛する対象と、頭の中に持っているセクシュアル・ファンタジーがすごく違うことに苦しんでいる人もいて。セクシュアル・ファンタジーとは、平たく言うと、「何を考えて興奮するか」。たとえば、女性が好きなのに性的には男性に興奮する、とか。優しくしたいのに、暴力的な空想をしたりする、とか。これは苦悩になる。
セクシュアル・ファンタジーと実際の自分のずれ、ということに着目したものって、今までセクシュアリティ界隈で見たことがないんだけど、もしかしてこれは、大事な点ではないかと思えた。それで、性転換をした友達と、一度とことん腹を割って話し合ったんです。そうしたら、ほとんどまったく同じセクシュアル・ファンタジーを持っていることがわかった。それまでわたしは、性転換までする人は、どこか別の人種のように思っていました。わたしにも性的なゆらぎはあっても、身体の性を変えたいなんて大それた欲求を持ったことは一度もないから。けれど話していくと、彼女の持つ欲求は、「強い」というだけで「異質」ではなかったんです。
たとえば、空を飛ぶのが好きな人がいて、でも飛行機の操縦免許まで取ろうとする人はまれである、という、そういう強度の違い。
「心の性と身体の性が違う」なんていう「異質」な人間がいるわけではなくて、誰しもにあるずれ、生まれた性へのくつろげなさ、それを強く感じる人がいる。それだけ。
「心の性と身体の性が違う人がいて、その人達には、心の性に合わせて身体の性を変える自由がある」という話が流通していて、たいていの人は、わかんないままに、じゃあそういうことにしとこう、って思っている。そこで内実を本当に知ろうとはしないから、自分とは異質な人がいるって思う。けれど、お題目ではなく、本当に、彼らはわたしと変わらないんだ、っていう確信のようなものがわたしは持てた。
彼女は、ジェンダークリニックでホルモン治療を受けたくらいだから、もうこっちは「男の自認ではないからジェンダークリニックで治療を受けるんだと思うじゃない? 男に生まれたけど、性自認が男じゃないから、ホルモン取りたがるんだと思うじゃない?そうではあるんだけど、それはある存在の部分的なところで男の自認のままのところを持っているところもあって。
きっかけは、なにかの話の中で、彼女が「性自認は男かもしれない」と言い出した。こっちは驚くわけです。「心の性と身体の性が違うからホルモン治療を受けたのでしょう?」と。そしたら「なんかよくわかんなくなってきた」と。こっちが困っちゃって、じゃあもうとことん一緒に悩もうみたいな感じで、今まで言ったことも聞いたこともないことを、出し合った。そうしたら、いちばん核に持っている、秘密にしてきたセクシュアル・ファンタジーが、二人でまったく一緒だったのです。
「体の中に男がいて、男の目で女の体を、自分の体を見て、その自分が好き」
という。そして二人ともそのことを恥じて隠していたのです。
その時に、「なんだ、あなたは私じゃん!」と思って、初めて本当に(カッコつきの)「セクシュアル・マイノリティ」の気持ちがわかったの。その前までは、そこまでやる人は異質だと思っていたんだけれども、人間の中にあるものがあって、程度の差でしかないんじゃないかと考えるようになった。本当に同じ人間なんだっていうふうにわかり合えた気がしたんです。
その話をした時に、トランスジェンダーのその人はすごく救われたと言ったのね。私はすごくびっくりして、私は私のセクシュアル・ファンタジーを話しただけだし、彼女も彼女が言えなかったセクシュアル・ファンタジーを話しただけなんだけども、「人間ってそういうズレに苦しむんだ」ということがわかった。
そう考えると「自分の性自認はこうで、生まれた性と合致していますor合致していません。好きになる対象は異性ですor同性です」ということにどれだけの意味があるのか、それで自分とか他人の何がわかるんだろうと思います。
鈴木涼美(以下、鈴木) その辺りのご経験が、この本の一番根底にある執筆の動機ですか?
赤坂 そうですね。もうひとつは、「ヘテロの生きづらさ」で、これらは一見対極にある動機なんですが、それらがぴったり重なるときがやってきたんです! そのとき本当にゾクゾクしました。
鈴木 性の対象と愛の対象が一致しない時の苦しみじゃないけど、戸惑いみたいなものは、映画「ボヘミアン・ラプソディ」のもそうだし、本書の中でたびたびご指摘なさっていて、大きなモチーフだと思いました。性と愛はすごく別物だけど、重なって認知されているし、多くのいわゆる「良い子」のための文学や、エンターテイメントの中では一致することになっている。
若い時に性が爆発する男の人の場合は、性と愛がけっこう切り離されるけど、女の子は少女漫画を読んだり、ディズニーの映画を見たりしている時代から恋愛を学んで、性のファンタジーより恋愛のファンタジーが先に来て、その先にぼんやりとあるものとして性の話がある感じがします。だからそれがずれていることにすごく嫌悪感があって、男の人の愛と性が一致していないところを垣間見ると、嫌悪感を持つ人が多いと思うんです。
それは不倫とかも、もしかしたらそうだったりもするし、風俗もそうだろうし、あとは性描写、いわゆるロリコン漫画とかの表現もそう。性的ファンタジーを愛とは別のところで持っていること自体が気持ち悪いこととして受け止めて、少女漫画で育ったおばさん達が怒るといような構図がある気がしますね。
家庭では一応ちゃんとしていて、ファンタジーをもって風俗にやって来る男性たちがいて、それを満たす仕組みとして風俗なり AV なりがある。人によっては、それですら受け皿にならなくて、別のところに出ていたりもするんだろうけど、そういうものがあること自体が許せないのは危ないと思いました。
それは究極的には性と愛の不一致とどう生きるかという、この本の話とすごくつながっているなと思います。
赤坂 いまおっしゃったところで面白かったのは、女性もそれをやるんですよ、表現において。実はそれが BL だと思っていて。BLの自由度って言ったらすごくて。
なぜBLが自由度を持てるかっていうと、恋愛とセックスがずっと永続する世界だからなのかなと。
鈴木さんの『身体を売ったらサヨウナラ』に「好きな人と恋愛して、誰が好きかわかってるし恋愛して楽しいし、でもその先に未来がないような気がする」って書いている部分があるんですが、それはすごくよくわかります。確か BL の作家がそういうことを言っていたと思います。なぜヘテロの恋愛を描かないのかという質問に、「その先に未来がない感じがする」と。
それは分かる気がするなと思って。恋愛して結婚して子供ができて子孫繁栄、みたいな話が人間の王道みたいに語られて、物語としてずっと続いてきて、そうじゃないと人間は価値がないと言われちゃうことは今でもなくはない。けれども、なんとなくその話に未来がないって感じる人達はいるんだなと思って。涼美さんの本にその言葉一行を発見してすごく嬉しかった。なんだろう、あの未来のない感じ。
鈴木 未来のない感じなのか、あるいは、ヘテロセクシャルの恋愛だと、性があって愛があって、その先に妊娠とか結婚とか家族形成という義務が待っているんだから、この恋愛の楽しさをずっとやっていちゃいけない感じというか、恋愛しているだけじゃダメだよ、先にちゃんと家族形成という義務が待っているんだから、この恋愛時代のものが永続的にある価値ではないというような、圧力?(笑)があるのか。
なんとなくヘテロの恋愛って、恋愛だけだと退廃的で、その先に未来はちゃんと描かないと、これはもう今だけのものって感じがする。一方でBL は、少なくとも妊娠とか家族になることは基本的にはなくて、ずっとこの楽しみを続けていていいんだよという感じが、消費していて気楽な気がするんですよね。
赤坂 そうね、重くなるのよね。ヘテロの物語は。変わっていく強制みたいなものも働く。
鈴木 シンデレラのその先の物語を想像すると全然楽しそうじゃない、みたいな(笑)
説明を要するセクシャルマイノリティと説明する言葉を持たないマジョリティ
鈴木涼美さん
赤坂 わたしには性転換者(広義のトランスジェンダー)の友達がいて、その混乱を救いたいと思ったのが『愛と性と存在のはなし』という本の執筆の一つの理由でした。しかしもう一つの理由に、対極的ですが「マジョリティたるヘテロこそ混乱していて、こじらせているんじゃないか」という洞察がありました。異性は違いが大きいので、惹かれ合いやすいが衝突しやすく、ありふれているために、細やかな言葉を見つけにくい。つまりこじらせやすく、こじらせたときに言葉がないのがマジョリティ。わたしは2つの、言葉にしにくいものを抱えていました。
また、昨今、気の利いた人であれば、セクシュアル・マイノリティのことを「わからない」と言ってはならないという暗黙の掟があります。本当はセクシュアル・マイノリティのそれぞれの内実のことを理解できないのに、「多様性に配慮する」「多様性を優先する」というお題目が先にきて、それをしなければならない。それは辛いんじゃないかと思って。
こういう「配慮」や「優先」って、余裕のあるときしかできない。他者に対する本当の慈しみは、わかり合える共通ベースがなければ生まれてこない。少しでも「あの人はわたしだ」と思えるところがなければ、本当の意味で尊重はできないのではないかと思います。
これらのことに全然言葉がないことを感じていたので、言葉を与えたいって思ったんです。
言葉にならないことに言葉が与えられなかったら、言葉がある意味なんかないとわたしは思っているので、言葉にならないことにこそ、言葉を与えてみたいって思って書き始めた、っていうのが一番の動機かもしれません。
鈴木 確かにシスジェンダーのヘテロは語らなくていいものとされ過ぎて、言葉が貧困だなと思いますね。セクシュアル・マイノリティを自認している人は、直接的に性やジェンダーを語るかは別として、自分で自分の存在自体を説明しなきゃいけないものだと思っているから言葉が豊かですよね。
それはAV女優にもあるんですよ。AV女優は、なったことを説明しなきゃいけない職業なんです。AV女優になるまでに事務的な監督面接やメーカー面接、プロダクション面接を何十と受けてきている。だからまず業界の中で語る場があって、いざ AV 女優として社会に出ると「なんで AV に出たのか」というのは語らなくてはいけないこととして、常に質問されている。私はいまだに初対面の人に「なんで AVに出たの」って何の悪気もなく聞かれます。毎回言うこと違うんですけど(笑)。だからAV 女優の言葉には厚みが出てくるんですよね。
そうやって他者に語らされる感じは、少しセクシュアル・マイノリティの人と通じるものがあるなと思います。存在自体が常に説明を必要とするという感じ。
自分がシスジェンダー、ヘテロセクシャルと思っている人は、語る場がない。
私も何で男性が好きなのかとかは語ったことがないわけです。だから例えばゲイの人なんかは、私がなんで AV 女優になったかというのと同じくらい、もしかしたらかもっと、いつ男性が好きだと自認したのかとか、どのような形で始まったのかとか、語らされる機会が多かったんだろうなと思います。
赤坂 本当の意味で「多様性」と言うならLGBTQ なんとかかんとかいうのならば、ヘテロの「H」を入れるべきじゃないかなとわたしは思います。
鈴木 そうですね。
赤坂 でないと、「LGBT」って「多様性」というよりは「野党連合」みたいになっている。
「ここにいますから認めてください」という感じで、中を聞いてみると「多様性」の中で細かい違いで仲が悪かったりして、「その態度のどこが多様性なの」って正直に言うと思うことがある。
例えば、わたしの執筆動機になった性転換者ですが、ホルモン療法だけを受けている人で性器はそのまま。すると彼女は「あなたは生まれつきの性同一性障害じゃないのよね」、と、手術を受けたトラスジェンダーから不完全な存在だと差別されることがある。仲間ではない、半端な存在だと。わたしのほうが完全だと。そうやって傷つけても平気。もとは、「男でないなら女である」という二分法の押し付けが、みんな苦しかったにちがいないのに。
かなり危険な外科手術を受けない限りは戸籍変更を認めないという法律も、過酷だと思います。
鈴木 マイノリティの中の分断とかマウンティングみたいなものはよく見ますね。
赤坂 「マイノリティ」なりに「マジョリティ」になりたいという欲求があるんだと思うんです。マジョリティのようにふるまうことはあきらめた、そして自らのマイノリティ性を認めたときに今度は「できれば典型的なマイノリティになりたい」と思う。「できれば語りやすいマイノリティなりたい」と。人はどういう立場でもどこまでも、マジョリティになりたい生き物なんだと思わされます。それで、今度は、流通しているマイノリティ語りのほうに自分を寄せていってしまう、ということが起きる。その気持ち自体は責められるものはないです、誰にでもあります。ただ、これがまずいのは、「大雑把なはなし」が、自他に信じられていくことではないかと思います。自分の中の本当の多様性を「流通している近似値」のほうに似せていく。これは、政治的なふるまいとしてはアリなんですが、本当に個人的なことを語るのには向かない。ちゃんと掘り下げもできない。それで、内実の切実さが他者に伝わらなくなり、なにより、自分自身にとらえられなくなってゆく。ここで、ヘテロのシスジェンダーに起きているのと同じことが、「多様性」の中で起きちゃうんです。それで誰もが誰もに、わからない存在となってゆく。真に個人的なことならば、掘り下げていけば他の個人とつながれると思うんです。属性がまったく違うように見えても。
それで内実の切実さ、細やかさがさらに伝わらなくなる。そもそも「定義」や「治療」にも問題があります。作中に出てくることですが、ジェンダークリニックは、「定義ありきで手術にまで導くところ」。自分自身を知る、というのが、いちばん大切なところが、自明なものとして飛ばされている。そして性同一性障害の診断を得るためにみんなが何をするかというと「模範解答を暗記して答える」。たとえば男性なら「小さな頃からお人形遊びが好きでした」とか。バクチク鳴らして遊んでいたとしてもです。そこで取りこぼされているものは、ヘテロが取りこぼしているものと何ら変わりがないと思いました。
こうして、マジョリティのヘテロ&シスジェンダーと、マイノリティとは、内実において出会わない。しかし、流通した言葉や定義を取っ払って語ってみれば、本当に深いところで、両者が出会うことはあり、そのときこそわかりあう、という実況中継が、この本のひとつのクライマックスです。件の性転換した友達と、わたしが、まったく同じ欲求を内側に持って、しかもそれを恥じて語らずに隠してきた、という事実が明らかになります。
鈴木 だからヘテロセクシャルのことを語ろうという試みは本当になくて、多分そこにこそこの本の意義があるんだと思います。
赤坂 ありがとうございます。性のことを語った本は多いと思うんだけど、ヘテロの生きづらさとトランスジェンダーの生きづらさを絶対に同一線上で語ってやると決めて、それをやりきった本って多分ないです。だから、本当に属性を問わない人たちから-たとえば再婚合体家族で7人の子持ちの女性から、生きづらい男性から、性転換者まで-「救われた」という声を寄せてくれたと思う。そこだけは、自信があります。
今日は、お話ができて、とてもうれしかったです。数々の名言や洞察を、ありがとうございました。今日は、お話ができて、とてもうれしかったです。数々の名言や洞察を、ありがとうございました。
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赤坂真理(あかさかまり)
東京生まれ。高円寺育ち。少しアメリカ育ち。90年に別件で行ったアルバイト面接で、アート誌『SALE2』の編集長に任命される。同誌に寄せた小説が文芸編集者の目に留まり、95年に「起爆者」で小説家デビュー。代表作に、寺島しのぶと大森南朋主演で映画化もされた『ヴァイブレータ』(講談社)、『ミューズ』(講談社・野間文芸新人賞)、アメリカで昭和天皇の戦争責任を問われ惑う少女を通してこの国の戦後を描いた『東京プリズン』(河出書房新社・毎日新聞文化賞、司馬遼太郎賞、紫式部賞)が大きな反響を呼び、戦後論の先駆けとなった。
大きな物語と個人的な物語は関連するという直感を持ち、社会と個人を結ぶ、批評と物語の中間的作品にも情熱を持つ。そうした作品に『モテたい理由』(講談社)『愛と暴力の戦後とその後』(講談社)など。本作もそうした系譜の作品のひとつであるといえる。
鈴木涼美(すずきすずみ)
1983年東京都出身。慶應義塾大学環境情報学部卒業、東京大学大学院学際情報学府修士課程修了。大学在学中からキャバクラ嬢などを経験し、20歳の時にAV女優デビュー。大学院卒業後は日本経済新聞社に入社し、都庁記者クラブや総務省記者クラブなどで5年半勤務。退社して著述家に。大学院での修士論文が2013年に『「AV女優」の社会学 なぜ彼女たちは饒舌に自らを語るのか』(青土社)として書籍化。世相や男女・人間関係を独自の視点と文体で表現するコラムやエッセイが話題。近刊に『非・絶滅男女図鑑』(集英社)がある。