猫は何もする気がないけれど、それでいい。ヒトはどうして必死になって働くのか――養老孟司と朝井まかてが語る愛猫の思い出

対談・鼎談

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ヒトの壁

『ヒトの壁』

著者
養老 孟司 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
自然科学/自然科学総記
ISBN
9784106109331
発売日
2021/12/17
価格
858円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

となりにいても、いなくても 対談・養老孟司×朝井まかて

[文] 新潮社


朝井まかてさんと養老孟司さん

一対一の関係

養老 まるは鳥を捕っていましたが、まるのようなやる気のないネコに捕られるような鳥は駄目だと思っていました。本当の自然淘汰で、諦めてもらうしかない。あとヤモリも食べちゃいます。まるに聞いたら、「白身でおいしいよ」って言うんじゃないかな。でもネコはしゃべれないからいいんです、うるさくなくて。

朝井 そうですね。私はずっと言葉を使う仕事なので、ものを言わなくても、マイケルとふっと目と目が合うという瞬間が、とてもよかったりしました。こちらがそう見ているだけかもしれないけれど、常に表情は違うし。でも書くのに夢中になると手を止められないし、私は途中であまり休憩も取らないんです。何時間でもぶっ通し。すると業を煮やしたように突然、大声でしゃべりだします。いいかげんにして、とか、おなかが空いたとか、鳴き声がそう聞こえる。ただ齢をとると、声のコントロールも利かなくなるんですよね。鳴き声がどんどん変になっていって。

養老 そうですね。

朝井 高低も何もかも、おかしくなっていって。

養老 まるも、最近、変な鳴き方をするねと話していたら、具合が悪かった。声もそれまでと違ってきましたし。

朝井 耳もほとんど聞こえていなかったみたいで、余計に鳴き声が大きく、調子が外れていった感じでした。それで、食べなくなったときには、ああ、もうそろそろかなと、覚悟しました。最後の水も、スポイトで。

養老 まるは最後まで食べてましたけどね、マヨネーズも。あと「ちゅ~る」をやると、すぐだまされて。実は、僕は動物のしつけが、ものすごく苦手で。

朝井 私も苦手です。

養老 昔、コスタリカで初めて馬に乗ったんです。そうしたら、馬がまず頭を下げて、草を食いだした。まさにこれが道草を食う。次に歩きだしたと思ったら、とっととっと、自分で行っちゃうんです。そばに牧場があって、その柵の中で馬が3頭走っていた。それに交ざろうと思ったらしくて柵のところまで走って行つちゃって、僕は馬に連れて行かれるがまま。付いていてくれた男の子が見かねて、手綱を締めろと教えてくれた。「手綱を引き締める」と「道草を食う」というのを、それで覚えたんだけど、乗った瞬間に道草を食われたから、僕にしつけは駄目だってわかったんです。

朝井 馬は人を見ますよね、私はすぐに足を噛まれました。お前はあかん、下りろと言うように、かぷっと(笑)。動物をしつけるにはこちらに一貫性がないとダメで、ぶれると相手に気の毒。でも私はボスをやるのが嫌なんです。しんどいですよ、ボスは。

養老 人間でも同じですよね。僕も苦手で。

朝井 ネコはあんまり上下関係がないですよね。

養老 そうですね。社会性がないですから、ネコは。

朝井 水平なんですよね。多分、そこも好きなのかなと思う。

養老 完全に一対一の関係です。

朝井 でももしかしたら下に見られていたのかもしれない。ご奉公しました。

養老 大体そうです。ネコは、こちらを構わないし、そもそも用事があるときは呼ぶから構うなって態度だから。

朝井 構うとすごく嫌そうな顔しますものね。私は今、その気じゃないっていう。

養老 まるを見ていると、なんで、人間はそんなに必死になって働くんだって思えてきてね。まるは何もする気がないけれど、あれでもいいんだ、人間ってばかだな、まるみたいにして十分、暮らせるのにって思う。まるは本当にやる気がなかったんです。鎌倉の家では縁側にリスが結構来るのですが、なにしろまるはリスがいなくなってから威嚇を始めるんだから。

朝井 ほんま、ええキャラしてはる(笑)。

養老 一番ひどかったのは、外出して帰って来て、外でまると一緒になって家に入ったとき、近所の野良猫がまるの餌場で餌を食べていたんだけど、そのネコがびっくりしてぴゅっと前を通って逃げたんです。野良猫が玄関から出て行ったあとに、まるが背中を丸めて、ふうって毛を立て始めて。もういないよ、って(笑)。タイミングが徹底的にずれていました。

朝井 何とも言えない、ちょっとしたテンポのずれが、たまらなくかわいいです。

養老 一応、怒んなきゃいけないとは思っているらしい。

朝井 ゆっくりと、むかむか来たんでしょうね。

乗り越えなくくいい

養老 生前は、よく寝ている縁側をふっと見るとやっぱりそこで寝ていて、それで気が休まっていたのですが、今はそれがないので、いるつもりになるしかないんです。まるを見てしまう癖が一番抜けません。

朝井 マイケルはお寺で火葬をしたのですが、お寺から帰って夫と二人でぼうぜんとしていて、気が付いたら私は引っ越しましょうと言っていました。このままだと、ずぶずぶと悲しみに沈んでしまうような気がして。そうしたら私の話を黙って聞いていた夫が、ふっと自分の部屋から何かを持って戻ってきて、「ええ物件あんねん~」と、チラシを差し出した(笑)。もともと、いつかは引っ越さないといけなかったのですが、高齢のマイケルに引っ越しは酷だと思って具体的な計画を棚上げにしていたんです。でも夫はネタを仕込んでたみたいで。そこからは速攻で、さっそく物件を見に行って、すぐに決めました。

養老 よかったですね。

朝井 そうこうしているうちに私が突然、網膜剥離になって、即日入院、手術。そんなことが立て続けに起きたので、彼女が亡くなってそのまま何もなかったら、だだあっと、いろいろな感情がなだれ込んできたと思うんですけど、病院で一人過ごしていると、ああ、これは乗り越えるべきものじゃないな、と。この寂しさも悲しさも乗り越えなくていい、ずっと胸に持っていていいものだと思いました。新居の書斎にも彼女が座っていたソファを置いていて、そこにはもう彼女はいない。でも、空虚としての存在は確かにあるんです。

養老 僕は、寝ているまるの頭をたたく癖があったんです。でももういないので、しょうがないから、今はお骨をたたいてます。

朝井 まだ骨つぼは身近に置いていますか?

養老 置いています。女房は、僕の骨つぼと一緒に埋めようと思っているらしいです。

朝井 それはそれは。

養老 僕が頭をたたいて「ばか」と言えるのはまるだけでした。それがもう口癖になっていましたから、もし再会できたとしたら、「ばか」と言いたいです。

朝井 それって、すごく愛情のある「ばか」ですね。

養老 他のネコはあまり「ばか」に見えませんでしたよ。

朝井 私はマイケルとまた会えたとしたら、たぶん、黙ってお互いじっと見つめ合うかな。

養老 まるは僕のことなんか絶対、見てない気がしたなあ。

朝井 そんなことないと思いますよ。

養老 せいぜい、餌くれ、ですよ。

朝井 息を引き取った晩、明日は火葬に連れて行くというとき、最後やから一緒に寝ようと思って、私の隣に寝かせたんです。どんどん硬直していく体を撫でながら寝ました。そういう感傷的なことをする自分に内心驚きながら。でも朝、目覚めたら彼女がいない。もうびっくりして探して。そしたらなんと、私の背中の下に……。

養老 敷いてたんですか。

朝井 己の正体を見た気がしました(笑)。ぺちゃんこになっていなかったし、壊れてもいなかった。よかった。

養老 いなくなっても、距離感や関係性みたいなものは変わらない感じがします。ここ(編注:和風一軒家の新潮社クラブ1階)は庭もあって少し自宅に似ているから、窓辺にまるがいそうな気がします。こういうところでよく寝てたから。

朝井 ええ。本当に、空虚は空虚として存在しているということを、すごく感じます。

養老 諸行無常ですね。生きていたら必ず死ぬ、別れは仕方がない。でも、僕がうっかりネコが欲しいとか言うと、持ってきてしまう人がいるからうかつに言えません。こちらは寿命がないので、どっちが先かになっちゃう。

朝井 私も、また長生きのネコだったらこちらが先に逝きそうなので、次を考えられません。でも、わからないですよね。その時々の縁があって、わが家に来るべき子がいたら来るのでしょう。ああいう、こちらを一瞬で見切ってしまって、それでいて堂々と無為徒食なんですから、ネコのいる人生は本当に面白いです。ふと、恋しくなりますね。これからの寒い季節はとくに。

 ***

養老孟司(ようろう・たけし)
1937年、鎌倉生まれ。解剖学者。まるとの最後の時間について伝える、今回の対談の一部も収録されている「壁」シリーズの最新刊、『ヒトの壁』は2021年12月17日に刊行された。

朝井まかて(あさい・まかて)
1959年、大阪府生まれ。作家。2021年『類』で芸術選奨文部科学大臣賞、柴田錬三郎賞を受賞。

新潮社 小説新潮
2021年11月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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