『禅の心で大切な人を見送る』
書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます
いまをよく生きるために心を整えるための禅的「5つの習慣」
[レビュアー] 印南敦史(作家、書評家)
『禅の心で大切な人を見送る 残された人が「よく生きる」ための心の整え方』(枡野俊明 著、光文社)の冒頭にはこう書かれています。
仏教では「人は二度死ぬ」といいます。
一度めの死は、肉体の死。息を引き取った瞬間に訪れる死です。二度めの死は、遺族や親近者、そして生前親しくしていた人たちの心から、故人の存在が消えてしまったときの死です。
亡くなった人が何を思うのか、もちろん本人に直接尋ねることはできません。しかし、今生きている私たちは思うのです。たとえ肉体は失われても、せめて私たちの心のなかで生き続けてほしいと。であるからこそ残された人々は、ことあるごとに故人について語るのです。その度に故人は蘇るのだと信じてのことでしょう。(「はじめに」より)
さらには、残された人々にはやるべきこと、逝った人のためにできることがあるのだそう。たとえば個人が成したいと思っていたことを、かわりに成し遂げてあげるとか。個人が行きたがっていたところへ、故人の写真とともに訪れてみるとか。
些細なことかもしれませんが、そういうことが個人への弔いになるわけです。そして忘れるべきでないのは、弔いが残された人々のためのものであるということ。
弔いは、ひとつの「けじめ」です。残された人々は、弔いを通じて「大切な人が亡くなった」という事実を、頭ではなく心で、そして身体そのもので理解し、悲しみの日々に区切りをつけるのです。
そして、故人のこれまでの人生を思い、自身のこれからの人生を思います。それは、故人の遺志を継ぎ、「よりよい生き方、よりよい死に方」を考える、稀有な機会にもなることでしょう。(「はじめに」より)
こうした考えに基づく本書第4章「いずれは必ず訪れる『死』に向き合う」のなかから、きょうは「日々の暮らし」に焦点を当てた項目を見てみたいと思います。
禅的 ていねいな暮らし
人生の終わりを迎えるにあたり、「相続をどうするのか」「葬儀や墓はどうするのか」ということなどを考えたり、ご縁のあった方々に思いを伝えることなどを、一般的に「終活」と呼びます。しかし著者は、そういったことだけが終活ではないと思うのだそうです。
「毎日徳を積み、今死んでも悔いはない」といえる一日一日を送ることそのものが、終活といえるのではないでしょうか。(129ページより)
事実、禅の教えは、日常の生活習慣やちょっとした所作に及ぶもの。そして、それらをひとことで表すとしたら、「なにごとも心を込めてていねいに」ということになるようです。
いいかえれば、なにをするにしても「うわの空」ではいけないということ。たとえば、お茶をいただきながらスマホを見るとか、ご飯をいただきながらテレビを見るなどの「ながら」作業は、悪い例の最たるもの。なぜなら、それではお茶にもスマホにも、食事にもテレビにも心が入らないから。したがって、些細な所作のも心を通わせる必要があるということです。
例えば、ものをひとつ机に置くにも、両手を添える。
禅僧は修行中、「片手ではなく両手で」するよう教わります。何か人にものを渡すときも、人からものを受け取るときも、そうです。
これだけで、所作としての美しさに格段の違いがでると思いませんか。
片手だと「ぞんざい」に扱っているように見えますが、両手だと「大切に思っています」という心がこもります。相手がきちんと受け取るまで見届けようとする、やさしさ、気遣いがあります。(130ページより)
だからこそ著者は、「片手でしていることを、あえて両手でしてみる」ことを勧めるのです。たとえば、握手などもあてはまるかもしれません。片手の握手は一般的なマナーですが、相手によっては両手で握手をすると、気持ちの伝わり方が違ってくるからです。(128ページより)
心を込めてていねいに暮らす
このように禅では、「なにごとも心を込めてていねいに」行うことが、生活を整え、ひいては心を整えることにつながっていくと考えられているのだそうです。そこでここでは、一般の人々が暮らしに取り入れやすいいくつかの例が紹介されています。
早起きをする
朝の過ごし方ひとつで、その日がどんな一日になるかが決まるもの。たとえば普段よりも30分早く起きるだけでも時間に余裕ができ、「なにごとも心を込めてていねいに」したいと思う、気持ちのゆとりが生まれるといいます。(131ページより)
よく噛み、ゆっくり食べる
よく噛むほどに頭は冴え、少ない量でもお腹が満たされます。毎日三度の食事のありがたさを実感できるのも、「ひと箸ひと箸に心を込めていただいてこそ」だということ。(131ページより)
毎日5分、掃除をする
禅には「一掃除、二信心」ということばがあるそうです。部屋などを掃除すると、心まで清々しくなるもの。つまり、このことばには、そういった「きれいな心」がなければ信心も続かないという意味が込められているわけです。
そこで、信心するかどうかはともかく、5分でもいいから毎日の掃除を習慣づけましょうと著者は提案しています。そうすれば、心が整うことを実感できるはずだから。仕事机の上やパソコンのデスクトップの整頓にも、同じ効果を期待できるようです。(131ページより)
姿勢を整え、呼吸を整える
「調身(ちょうしん)・調息(ちょうそく)・調心(ちょうしん)」の順で心は整うのだといいます。調身とは、姿勢を整えること。横から見て背骨がS字を描き、尾骶骨と頭のてっぺんが一直線になるのがいい姿勢だそうです。
調息とは、丹田(たんでん)呼吸を整えること。丹田とは、へその下10㎝ほどのあたりをいいます。1分間に3、4回程度のペースで腹式呼吸を繰り返すといいそう。調身、調息がうまくいけば心は自然に整うものだといいます。(132ページより)
夜は「なにも考えない」
日中の疲れをその日のうちに癒すには、よい睡眠が不可欠。ところが夜は、睡眠の妨げとなる不安や心配ごとにとらわれがちでもあります。そこで、湯船にのんびり浸かったり、静かな音楽を聴いたりして、リラックスに努めるべき。そして、床につく30分前からはなにも考えないことがポイント。もちろん、「気がつけば深夜」の元凶となるスマホも手元から遠ざけておくことが大切。(132ページより)
著者によれば本書は、残された人々のために「禅の心」を伝えるために書かれたもの。禅とは、いつ、誰が旅立つともしれないこの人生を、精一杯生きるための知恵だそうです。だとすれば、生涯を悔いなく終えるための指南書として、本書を活用すべきなのかもしれません。
Source: 光文社