「頭の底が白くなった……」脳研究者・池谷裕二が一生の課題として読む文庫とは

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混沌の長いトンネルを抜けると虚構であった。

[レビュアー] 池谷裕二(脳研究者/東京大学薬学部教授)


脳科学者・池谷裕二

脳研究者の池谷裕二さんが、『雪国』『フェルマーの最終定理』『日本仏教史』の3冊をセレクトした理由とは?

池谷裕二・評「混沌の長いトンネルを抜けると虚構であった。」

 私はあまり本を読みません。読書が嫌いなわけではないのですが、ついほかを優先してしまうのです。そんな文字に馴染まない生活をしている私ですが、自分に課しているタスクがあります。『雪国』(川端康成著)を10年ごとに読み返すという、いわば一生にわたる課題です。

 初回は20歳のとき。何か得体の知れないものに触れたという感触はありましたが、底しれぬ文体の向こう側につかみ切れない何かが潜んでいることを痛感しました。そこで人生の課題としたのです。

 4回目の通読は3年前です。50歳になったからといって容易に理解できるような作品ではありませんが、以前は共感できなかった主人公・島村に対して感情移入できる自分に驚きました。

 島村が雪国に渡るのは、現代風に言えば、仮想空間への逃避でしょうか。「この指だけは女の触感で今も濡れていて、自分を遠くの女へ引き寄せるかのようだ」――。幽玄世界に誘われるがごとく雪国に2度立ち戻る。雪国での主人公は当事者であり当事者でない。あたかも腐女子がボーイズラブを眺めるような視点で、虚数軸を浮遊しながら遠隔的に興じます。川端本人も少年期にボーイズラブの経験があったそうですが、それと関連しているのでしょうか。

 仮想空間は脳が成立させる世界です。現実の身体性から自分を解放できるからこそ、私たちは仮想空間に没入することができます。本来は存在しないはずの仮想世界を、リアルに実感できるのは、いわば信念。いや、信仰といって差し支えないでしょう。脳で感じるものである以上、それは「信じる」ことで成立するからです。

 私は科学研究に職を置きながら、科学もまた信仰の賜にほかならないと感じています。学問の雄たる「数学」でさえ信仰の結晶です。それは『フェルマーの最終定理』(サイモン・シン著)を読めばわかります。

 17世紀のフランスで活躍した数学者ピエール・ド・フェルマーが一冊の書物の余白に書き残したシンプルな命題。この証明に貢献した数学者たちの奮闘と挫折。このテーマを扱う書籍は数多くありますが、サイモン・シンは劇的な筆致で描き、エンターテインメント性において類書を凌駕します。

 さて、フェルマーが提唱した定理は、300年以上の歳月を経て証明されました。この営みこそ、まさしく信仰です。「きっと正しいに違いない」という数学者たちの信念はどこから来るのでしょう。そもそも、仮に「正しい定理」だったとしても、ヒトの脳で理解できる範囲内で証明可能かどうかもわかりません。なぜなら数学はヒトに理解できるように気を利かせた体系をとってくれているとは限らないからです。にもかかわらず「人生を懸ける価値がある」と直感する。これを宗教と言わずしてなんと呼ぶべきでしょうか。

 最後に宗教どまん中の本を取り上げましょう。新潮文庫の隠れた名著『日本仏教史』(末木文美士著)です。著者は仏教の専門家ながら、哲学、歴史、文学などの幅広い分野を横断しながら筆を進めます。本書の副題は「思想史としてのアプローチ」で、まさにこの点こそが普通の仏教史とは異なるポイントです。

 私は無宗教を謳ってはいます。しかし海外の方から宗教を訊かれれば、とりあえず「仏教徒だ」と答えます。日本の仏教はユニークです。原点であるインドの仏教とは別物です。本書を読めば、朝鮮から渡来した仏教が、日本土着の民俗信仰や神道と融合しながら、再構築されていく経過がよく理解できます。歴史の流れで何度も偏見と政治的圧力に屈しながら、「日本の仏教」へと変貌しました。

 著者は問いかけます。「仏教は日本に定着したといわれます。だが、その定着の中身は何だったのでしょうか」。私がよく知っているこの仏教が「本物」でないとしたら、外国人に「仏教徒だ」と主張した私は一体何者なのでしょうか。

――混沌の長いトンネルを抜けると虚構であった。頭の底が白くなった。

※[私の好きな新潮文庫]混沌の長いトンネルを抜けると虚構であった。――池谷裕二 「波」2023年6月号より

新潮社 波
2023年6月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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