『逃げ道』
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あのノーベル賞作家の娘がデビュー 絶妙に肩の力が抜けた作品集
[レビュアー] 鴻巣友季子(翻訳家、エッセイスト)
ナオミ・イシグロはあのノーベル文学賞作家カズオ・イシグロの娘で、父と同じくイギリス東部のイーストアングリア大学の名門創作学科で学んだ。エリート感あふれる新人の第一作品集がこの『逃げ道』だ。
短編六編と、三部に分かれた中編を一つ収録し、短編のうち五編は男性を主人公にしているが、これは自伝的要素があると勘繰られないための対策らしい。
タイトルのとおり、短編には「逃げる」「避ける」「逸れる」お話が多い。「魔法使いたち」では、十一歳になると魔法の力が手に入ると信じている少年と、二十八歳のさえない占い師が、交互に視点人物になる。少年は親の事情で転校させられるのが嫌で衝動的に親の元から走りだす。占い師は現実を見ようとしない。ふたりは作中、二回邂逅をはたす。
「くま」は傑作だ。新婚の夫婦がソファを買おうとオークションに参加するが、妻はばかでかいだけで何の役にも立たないぬいぐるみのベアを競り落とす。そいつは初め予備の寝室に置かれるが、そのうち居間へ、夫婦の寝室へと入りこんでくる。夫はいろいろなものや人に苛立つようになり、夫婦生活にも支障をきたしはじめるが……。ちょっとサスペンス風の心理小説だ。
収録作品の多くはどこか幻想的な雰囲気をまといながら、あくまでリアリズムの技法に根差している。唯一ファンタジーとして括れるのは、連作中編の「ネズミ捕り」だろう。疫病が蔓延し国王が崩御した王国を舞台に、新王とその姉、ネズミ捕り業者らの錯綜する思惑を描く。そんなガチガチの中世風道具立てのわりに、やはり作者らしい現代文学的な筆致と遊びがある。
絶妙に肩の力が抜けたデビュー作。以前イシグロ父が言っていたが、母校の創作学科は完全な放任主義だそうだ。こういう力みのなさまで自主的に身につけたのだとしたら、やはり天性の才能ではないか。