『火星年代記』
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なつかしさでズブ濡れだ
[レビュアー] 北村薫(作家)
書評子4人がテーマに沿った名著を紹介
今回のテーマは「望郷」です
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ふるさとは遠きにありて思ふもの――と室生犀星はいいました。遠く離れていることは、懐かしさを増幅させます。まして空間的距離以上に、二度とは戻れぬ時間の隔たりまであったらどうでしょう。
レイ・ブラッドベリの名作『火星年代記〈新版〉』(小笠原豊樹訳)に、「第三探検隊」という短編が収められています。
苦難の末、火星に到着した探検隊員たちが目にしたのは不思議なことに、誰にとっても見覚えのある町並みでした。外には、薄いが安全な大気が満ちている。
まず、三人の隊員が調べに行きます。町は、それぞれの故郷、オハイオにも、アイオワにも、イリノイにも似ている。
それだけではない。思い出の中にいる人々が、次々に現れる。自分たちが数十年前の地球に着陸したとしか思えない。隊員たちは、もういないはずの大切な家族に再会する。
ジョン隊長は、二十六で亡くなった兄と出会い、抱き合う。「ママが待っているよ」。そして「パパも待ってる」。生まれ育った家で、少年の頃のように家族でおしゃべりをし、食事をし、自分の部屋に行く。「黄色い真鍮のベッドがあり、昔のカレッジの三角旗と、かびくさいアライグマの毛皮のコートがあった」。窓からは昔ながらの風、誰かのかけているレコードの響き。隊長はいいます。「なつかしさでズブ濡れだ」。
ある程度以上の年齢の人間の、胸にしみ入る、忘れ難い物語といえます。