『白鯨 上』
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ブラッドベリも未読だった大長編――川本三郎
[レビュアー] 川本三郎(評論家)
モームの『世界の十大小説』には『赤と黒』『嵐が丘』『戦争と平和』などの大著が並ぶが、なかでも難物は『白鯨』ではないか。
これを読み切るにはかなりの忍耐を必要とする。捕鯨船のこと、鯨のこと、さらに聖書のこと、かなりの知識が要求される。
コーヒーのチェーン店スターバックスの名は白鯨を追う船の一等航海士から取られていると言われるため、アメリカでは広く読まれていると思ってしまうが、決してそんなことはない。
ウディ・アレンの映画に「カメレオンマン」というコメディがある。対人恐怖症のため、会う相手ごとに人格が変わるという奇病にとりつかれた男の物語。
彼がなぜそんな病気になったかというと、高校時代、友人に「『白鯨』を読んだか」と聞かれ、つい見栄を張って「読んだ」と言ってしまったから。
いつウソがばれるかと不安になり対人恐怖症になった。それほど『白鯨』は読み切るのが大変な長編。
ジョン・ヒューストン監督は、『白鯨』を一九五六年に映画化したが、この時に脚本を依頼したのが若き日のブラッドベリ。
尊敬する大監督から指名され、感激して引受けたがまず最初にしたのは、本屋に走って『白鯨』を買うこと。彼もまた有名なこの古典を読んでいなかった。
ブラッドベリは、のち『白鯨』の脚本に取組んだ悪戦苦闘の日々を回想した長編小説『緑の影、白い鯨』を出版する。
これを翻訳したのは私なのだが(筑摩書房、07年)実は私もきちんと『白鯨』を読んだことがなく、あわてて本屋に走った。
『白鯨』を読むには根気がいる。列車のなかで読むのがいい。漫画家の藤子不二雄(A)は少年時代、富山新聞で働いた。自宅のある高岡から新聞社のある富山まで北陸本線の汽車で通った。
片道約四十分。往復の列車のなかで本を楽しんだ。そこで読み切ったのが『白鯨』。愛読書になった。十代だから凄い。