『源氏物語 上』
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角田光代『源氏物語』を訳す
[文] 瀧井朝世(ライター)
■現代小説とつながる構成の妙
──今回、すんなり通しで読むことができて、現代小説と並ぶような、構成や伏線に驚きました。関係性の変化や、別れと再会、といったところが、ちゃんと前半でほのめかされていて。『源氏物語』に詳しい人には当たり前なのかもしれないけど、全編プロットを組んでから書いたように思えてきます。
角田 思いました。本当にそう思いました。びっくりしますよね。伏線回収してる!って。
──そうなんですよ。複雑な生い立ち、その後の権力争い、恋愛と性愛、父と母……すべてを見越したかのような設定と、覚えられないくらいの細かな人物相関図。現代作家だったら事前に細かい人物表と人物相関図を用意しておかないと書けないんじゃないかと思うくらい。どうしていたんだろうと思います。訳しながら、角田さん自身も書き手として紫式部はこれをどうやって書いたのか、ということは想像しましたか?
角田 そうですね。どう書いたんだろうとはよく思いました。とにかく物語があまりにも出来すぎているので……。それは昔、ひとつずつのエピソードとして読んでいるときは気づかなかったことなんですけど、今回、通読して、さらに翻訳して、いかに物語に細かい伏線が張ってあって、構成が実にちゃんとしているかということにびっくりしました。
よく後からいろんな人が書き換えたとか言われていますが、その説はいったん置いておいて、もし紫式部がこれを全部一人で書いたという前提で考えるのならば、私はたぶん作者が意図して自分のコントロール下で書き進められたのは「明石」の帖までだと思うんですよ。「明石」以降はちょっと自分でも思いもよらないほうにいってしまって、物語や登場人物が勝手に歩いていっちゃって、ときどきコントロールするために短い挿話を差し込んでいるんだけど、物語の大きな流れはたぶん作者の手を離れちゃったんじゃないかなという印象があるんですよね。
書き手として私が考えるのは、小説というのはたぶん自分ができるすべての力を注いでつくったとしても、できるのは百パーセントまでで──それすらも難しいんですけども──それ以上は絶対にいかないと思っていたんですね。でも小説が百パーセント以上の力を発揮することがあって、それは作者じゃなくて、小説に宿った力がそうさせることがごく稀にあるとなんとなく考えていたんです。それの超弩級版がまさにこの『源氏物語』じゃないかなって、最近は思っています。
──光源氏は自ら第一線を退いて明石に赴くというところまで紫式部は考えていたけれども、その後京に戻って以降は作者も予想外だったのでは、ということですか?
角田 都に復帰させて、栄華を極めるじゃないですか。だけど源氏自体はどこか元気がないように思うんです。蝶よ花よ、みたいな感じになるかと思えばそうじゃなくて、再び派手な生活を始めたのにどこか寂しそうで。そして思いどおりになっていたことが、またどんどん思いどおりにならなくなっていく──みたいなところから、作者と物語の乖離が始まっているように感じられるんです。こんなにいい町を作って、憎き敵も成敗して、権力も戻してあげた、あれ、でもそれでハッピーエンドにならないぞ、おかしいなという思いが、作者にあったんじゃないかなどと想像してしまうんですね。
もちろん作者だから、「明石」以後も女をみんな源氏になびかせることもできたのに、そうしない。しないというよりできなかったようにも思います。物語は源氏というスーパーヒーローを離れていく。
物語のなかで作者が彼の周りを派手にすればするほど、なんとなく源氏の影がどんどん薄くなっていくというか、源氏が別のほうに移行していってしまうという印象がありますね。もう若くないという年齢的なこともあるけれど、それだけではないような……。もっと続けたいのに、華々しく続けたいのに、なぜかそういかない……、と。後の人間から見れば、物語自体がもっと濃い意味とか深さを持ってしまったんだけども、作者としてはまだまだ源氏中心に書く気だったような気もするんですよね。あるいは、女たちのほうが勝手に生き生きと息づきはじめてしまったのかもしれない。それも作者の思惑を超えて、のような気がします。