『天使・雲雀』
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意志の自由は手放さない特殊な〈感覚〉を持つ青年の半生
[レビュアー] 石井千湖(書評家)
佐藤亜紀の『天使』が、対をなす『雲雀』と合本した完全版『天使・雲雀』として復刊された。第一次世界大戦の十年ほど前から一九二八年にかけて、激動のヨーロッパを舞台に、他人の思考に侵入し動かすことができる〈感覚〉を持つ間諜たちの暗闘を描く。
主人公のジェルジュは、十歳のとき〈感覚〉を見出され、ウィーンの顧問官と呼ばれる男に引き取られる。権力者とつながる顧問官は、ジェルジュに〈感覚〉を制御するための訓練を施す。まず自らの能力を潰したいと願うようになったジェルジュが、〈感覚〉を完全に解放する場面が強烈だ。安楽椅子に座って目を瞑っているのに、中庭の木に来ている小鳥が見えるのだ。
〈小さな体の重みや羽毛のふくらみ、陽の光に溶けて滴る枝先の水滴まで感じ取れた。彼はその暖かい塊を手の中に包み込むように感覚で包んだ。それから、軽くつついた。小鳥は驚いて飛び去った。更に体の力を抜いた。捉えられる全てのものが眩いくらいに鮮明になり、影は濃さを増した〉。ジェルジュは酷く消耗するが〈感覚〉は消えず、逆に研ぎ澄まされてしまう。
作中の表現を読むかぎり、〈感覚〉は人間を肉体という檻から出してくれるもののようだ。そんな凄まじい力を具えていながら、ジェルジュの人生にはほとんど選択の自由がない。初恋は一瞬で失い、顧問官に命じられるまま革命前夜のロシアへ行く。宿敵と死闘を繰り広げ帰国したあとも、ヨーロッパ各地に赴き、安住できる場所はない。しかし、極限状況においても自分の頭で考え、意志の自由は手放さないところがいい。
あわせてすすめたいのが『ウィーン世紀末文学選』(岩波文庫)。『天使・雲雀』のジェルジュと同年代の作家ロートの「ファルメライヤー駅長」など、十六編を収めたアンソロジーだ。編訳を務めた池内紀の〈精神の世界都市〉という言葉は読解の鍵になる。佐藤亜紀がフランス占領下のウィーンを描いた『1809 ナポレオン暗殺』(文春文庫)も読むと、精神の世界都市の歴史がより立体的に見えてくるだろう。