三島由紀夫の印象が一変する…幻想、ホラー、コメディなどバラエティに富んだ短編小説が面白い〈新潮文庫の「三島由紀夫」を34冊 全部読んでみた結果【前編】〉

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花ざかりの森・憂国

『花ざかりの森・憂国』

著者
三島 由紀夫 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784101050416
発売日
2020/10/28
価格
693円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

34冊! 新潮文庫の三島由紀夫を全部読む[前編]

[レビュアー] 南陀楼綾繁(ライター/編集者)

『花ざかりの森・憂国』

 十三編を収録。

 表題作の「花ざかりの森」は十六歳で書かれたもので、美しい文章だとは思うが、頭に入ってこなかった。三島は解説で「今では何だか浪曼派の悪影響と、若年寄のような気取りばかりが目について仕方がない」ので「もはや愛さない」と述べている。

「詩を書く少年」は、少年期の自分を愛でるような作品で、詩が生まれるときに恍惚を感じ、世界が変貌する感覚をするどく捉えている。

「詩というものが、彼の時折の幸福を保証するために現われるのか、それとも、詩が生れるから、彼が幸福になれるのか、そのへんははっきりわからなかった。ただその幸福は、(略)多分誰にも彼にもあるという幸福ではなく、彼だけの知っているものだということは確かであった」

「卵」はぬけぬけとしたナンセンス。邪太郎、妄介、殺雄などふざけた名前の大学生が、毎日飲んでいた卵たちに裁判にかけられる。三島、こんなのも書けるのか。

 若い連中のバカ騒ぎという点では、「月」も面白い。モダン・ジャズの店に入りびたる「ビート族」のキー子、ハイミナーラ、ピータアらは、昼に活動するセンスのない「藷(いも)たち」を軽蔑し、深夜のツウィスト・パーティーに熱中する。同じメンバーは、「葡萄パン」(『真夏の死』)にも登場する。こちらは湘南でのドラッグ・パーティーが舞台だ。

「当時(一九六三年 引用者注)東京ではツウィストが流行しはじめ、ビート・バアがいくつか店を開いた。その一つの店へ通ううち、その店で知り合った少年少女たちの話をきき、特殊な語法に馴れ、隠語を学び、……次第に、かれらの生活の根底的な憂愁に触れて、この二つの短編が出来上がった」(『真夏の死』解説)

 風景描写がすぐれているのは、「遠乗会」だ。葛城夫人はある理由で、乗馬倶楽部の遠乗り会に参加する。少年が「やあ、見えた、見えた」と叫ぶと、江戸川を隔てた向こう側から、騎馬の一団がやってくる。先頭の馬に乗っていたのが、求婚されたことのある将軍だった。工場が並び、車が行き交うなかを、騎馬に乗った一団が進むという時代錯誤な情景が、この物語にふさわしい。

「橋づくし」も移動の描写だけで成り立っている作品だ。新橋の料亭の娘・満佐子と芸者が、願い事を叶えるために築地の七つの橋を無言で渡る。急に腹が痛んだり、知り合いに声をかけられたりして同行者が脱落していくなか、満佐子は最後まで無言の行を続けようとするが……。優美でしかも笑える物語だ。

 三島は結婚前に交際していた豊田貞子に大阪の花柳界の話を聞き、それを東京に変えてこの作品を書いたという(岡山典弘『三島由紀夫が愛した美女たち』啓文社書房)。貞子は『沈める滝』のモデルでもある。

 この「橋づくし」や歌舞伎界に取材した「女方」、ビート族を描いた「月」について、三島はこれらの世界を面白がって覗くという「遊び」から生まれたものだという。

「自分を故意に一個の古風な小説家の見地に置いて、いろんな世界を遊弋しながら、ゆったりと観察し、磨きをかけた文体で短編を書くという、私の脳裡にある小説家のいわばダンディスムから生れたものだ。短編小説はこういうダンディスムの所産であるべきだという考えが、今も私からは抜けないのである」(『花ざかりの森・憂国』解説)

 三島の長編については次回取り上げるが、いろんな世界を遊弋し観察する「ダンディスム」は、長編にも息づいているように思う。

「新聞紙」は妄想が生み出すホラーで、最後の一行が見事。

「憂国」は、二・二六事件を機に割腹自殺する青年将校とそれに従う妻の最後の夜を描く。死と肉の欲望が混然一体となった究極のエロスが、「渾身の自由」を生み出す。

 本書の中で最も面白かったのは、「百万円煎餅」だ。若い夫婦がある夜、浅草の「新世界」で遊ぶ。そんなところがあったのかと調べてみると、写真が載っていた。屋上に五重塔があるビルで、名店街やゲームセンター、温泉、キャバレーなどが入っていたようだ。

 計画的に節約して堅実に暮らす若夫婦にとっては、「誰の手も届かない飛切りの生活の夢が、そこに純潔に蔵(しま)われているような感じ」がする。彼らは珍しく羽目を外し、ゲームで遊んだり、紙幣を模した百万円煎餅を買ったりする。しかし、そのあと彼らが向かったのは意外な場所だった。そこは彼らの仕事場だったのだ。どんな仕事かは書かない方がいいだろう。つつましく、未来を見据える夫婦だから、よけいにもの悲しさを感じる。舞台を「ドン・キホーテ」に変えたら、そのままいまに通じる物語になりそうだ。

 三島自身もこの作品に愛着があったのか、「「百万円煎餅」の背景――浅草新世界」というエッセイを書いている(『三島由紀夫評論全集』第二巻)。作品のモデルとなった「新世界」をめぐったときの印象を書いていて興味深い。

「つまり浅草的とは、率直の美徳ということであり、安物が多いのは、欲望と欲望満足との間の距離を最大限にちぢめようという商業道徳を意味するのであろう」

 なお、この作品は新潮文庫のアンソロジー『日本文学100年の名作』第五巻にも収録されているが、その解説で池内紀は、三島がこの作品に続いて「憂国」を書いたことを指摘する。

「ためしに読みくらべると気がつく。登場人物、若い夫と妻の描写、二人の恋情、高まりとクライマックス、すべてが瓜二つ。二つの小説はトランプのジョーカーの表と裏のようにつくってある。鬼才三島にのみできた高度な文学遊戯である」

新潮社 波
2020年12月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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