『文明交錯』
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『文明交錯 (原題)CIVILIZATIONS』ローラン・ビネ著(東京創元社)
[レビュアー] 森本あんり(神学者・東京女子大学長)
インカ 欧州征服の物語
スペイン人がいとも簡単にインカ帝国を征服できたのは銃や馬をもっていたからだ、というのがジャレド・ダイアモンドの文明論だが、もしこれが逆だったらどうだろう。そして、未知の病原菌に感染して次々と死んでいったのが先住民でなくヨーロッパ人だったら――これが本書の設定である。邦訳三冊目の著者は、歴史を題材としつつ、事実関係をひっくり返して奇想天外な物語を紡ぐフランスの名手である。
今回の物語は、はるか昔に北欧から鉄と馬を伝えられたインディオがコロンブスの一行を殲滅(せんめつ)したところから始まる。史実では、その後ピサロがアタワルパ王を処刑してインカ帝国を滅ぼすのだが、本書では逆にアタワルパらインディオが勝利して海を渡り、スペインと手を組んでヨーロッパ全土を窺(うかが)うようになる。
ときは宗教改革の時代だが、太陽神を拝むインカの宗教からすれば、カトリックとプロテスタントの違いなど瑣末(さまつ)事にすぎない。アタワルパはユダヤ人にも改宗ムスリムにも寛大で、魔女も男色家も大歓迎。おかげでますます民衆の信頼を得て勢力を広げた彼は、ついにカール五世を継いで神聖ローマ帝国の皇帝となる。
なかでも傑作なのは、トマス・モアがエラスムスに宛てて書いた相談の手紙だ。ご存じの通り英国教会はヘンリー八世の結婚問題に始まるのだが、重婚はインカの宗教では何の問題にもならないので、王は全イングランドの宗教を太陽神崇拝に鞍(くら)替えしてしまう。史実でも親交のあった二人だが、憂えるモアに対するエラスムスの返書がまた粋である。中世の神学は、異端には不寛容だが異教には寛容なのだ。
他にも、マキアヴェッリやミケランジェロ、セルバンテスといった名脇役が登場する。歴史に名を残した偉人たちの繰り広げるパロディが、滑稽な破壊力を存分に発揮する物語だ。なお、世界史を学ぶ受験生諸君にはお勧めしない(大学に入ってから読んでごらん)。橘明美訳。