西きょうじ「そもそも」
2017/04/07

第十五回 私たちには宗教が必要だ

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 今、話題になっているスコセッシ監督の「沈黙-サイレンス-」を観た。全体として、とても静かで監督の思いが強く伝わってくる素晴らしい映画だった。遠藤周作の原作を読んだのは小学生の頃だったが、大きな衝撃を受けたことを覚えている。『沈黙』(新潮社)は、江戸時代初期、キリシタン弾圧の時代にポルトガル人の宣教師が自らの信仰と向かい合う姿を描きだした歴史小説だ。当時、一番印象に残ったのは、拷問される信者たちの姿を目の当たりにして、自分が棄教すれば彼らは救われると知った主人公が、踏み絵を踏むことを受け入れる場面だ。踏み絵のなかのイエスが「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ」と語りかける。さらには、キリスト教と宣教師を何度も裏切ったキチジローが、告解を求める場面で、今度はキチジローの顔を通してイエスが主人公に語りかける。「私は沈黙していたのではない。お前たちと共に苦しんでいたのだ」「弱いものが強いものよりも苦しまなかったと、誰が言えるのか?」ここで主人公は神の教えを実感することになるのだが、私には納得がいかなかった。宣教師に語りかけることで、神が沈黙していない、といえるのか、拷問され殺されていった信者たちに対しては沈黙し続けたのではないか。救ったとすれば、宣教師個人の気持ちだけではないのか。殉教と踏み絵、もう少し一般化して、信じることと裏切ることについて考え込んだ覚えがある。当時、読めていなかったのは、棄教を受け入れた宣教師が実は最後までキリストを信じていた、ということだ。ここは原作では暗示するにとどまっているが、映画ではラストシーンではっきりと描き出されている。
 それから四〇年以上経って映画館で「沈黙」に再び出会ったのだが、今は「布教」する、とはどういうことか、さらに「宗教」は必要なのか、について考えている。
 そもそも、アニミズムであれ、多神教であれ、一神教であれ、自分たちを超越した存在に対する共同幻想(=宗教)は集団が生き延びるのに必要である。自分たちの習慣や制度を安定させるために、何らかの絶対的な至上の権威が要求されるからだ。しかし、宗教は局地的なものであり、それを世界に広げようとする宗教は存在していなかった。自分たちが自分たちなりの宗教を共有していることが、信じられればそれで十分だったのだ。
 紀元前一〇〇〇年頃になって、宗教を普遍性のあるものとして布教しようという動きが現れる。もちろん、他国の支配という政治的目的のために利用されたという面もある。紀元一〇〇年頃には一神教信者は少数だったが、次第に支配力を広げていく。もちろん、その筆頭はキリスト教だ。支配力を広げると他の宗教と出会うことになるが、そもそも、一神教は、唯一の神を絶対とするものであるから、他の宗教(とりわけ他の一神教)は偽りであるとせざるを得ない。すると必然的に、排除が行われ、暴力が行使されることになる。自らの考えに対する確信と他の考え方の排除は、同じ宗教内でも生じることになる。一六世紀と一七世紀にはキリスト教のプロテスタントとカトリックが、解釈の違いを根本的原因として、殺し合い、何十万もの死者を出している。
 布教は帝国主義と結びつくものだった。被植民地の民を野蛮人と見なし、神の存在を教えることで、かれらを教化し、精神的にも支配しようとしたのだ。ユダヤ教やイスラム教ほど戒律が厳しくないという点でもキリスト教は布教に適していたのだろう。しかし、日本は、江戸時代にキリスト教を危険な思想として、禁止し、その命令に従わないものは拷問、処刑するという対抗策を講じた。これが『沈黙』の時代背景である。
 映画の中で、長崎奉行の井上筑後守(彼はもとはキリシタンだったのだが、改宗してキリシタンを取り締まる側にいる)が、日本にはキリスト教は根付かない、と主人公に語る場面がある。確かにキリスト教の理念は当時の日本人には受け入れがたいものであったはずだ。しかし、キリスト教信者となった者たちも少なからず存在した。私が思うに、あまりの生活苦に苦しむ者たちにとって、キリストを信じ、祈りさえすればハライソ(パラダイス・天国)に行くことができる、という教えはすがりつくことができる希望だったのだろう。その教えが正しいかどうかは私にはわからない。映画では、その希望を確認しようとする信者に対して、一人の宣教師がそうではないと言うのだが、主人公の宣教師がそれを訂正し天国に行けるという希望を受け入れていた。
 映画で、キチジローがこう言う場面がある。「弱い者の居場所はどこにあるんです。なぜ俺は、迫害なんかない世の中に生まれなかったんだ。もしそうだったら俺は立派なキリシタンになれたのに」これは、おそらく、間違っている。そもそも、弱い者の居場所があったならば、彼はキリシタンになることはなかっただろう。
 そもそも個人としての人は弱い存在である。弱い個人が生きていくのに必要なのは、周囲とのつながりであり、つながるためには共感すること、さらには、何らかの価値観を共有することが必要だ。また、先に述べたように集団生活を安定したものにするためには、何らかの絶対性を共有することが必要になる。慣習や制度そのものは外部的環境、あるいは内部的環境の変化によって揺らぐものだからだ。
 そのような絶対性への共同幻想を広義に宗教と呼ぶことにすれば、共産主義も民主主義も資本主義も宗教的要素を持っていると言える。『サピエンス全史』(ユヴァル・ノア・ハラリ/河出書房新社)では、こう断じられている。「近代には、自由主義や共産主義、資本主義、国民主義、ナチズムといった、自然法則の新宗教が多数台頭してきた。これらの主義は宗教と呼ばれることを好まず、自らをイデオロギーと称する。だが、これはただの言葉の綾にすぎない」さらに、筆者は以下のように述べている。
「このような論法を非常に不快に感じる読者もいるかもしれない。もし、共産主義を宗教ではなくイデオロギーと呼ぶほうがしっくりくるなら、そう呼び続けてもらっていっこうにかまわない。どちらにしても同じことだ。私たちは信念を、神を中心とする宗教と、自然法則に基づくという、神不在のイデオロギーに区分することができる。だがそうすると、一貫性を保つためには、少なくとも仏教や道教、ストア主義のいくつかの宗派を宗教ではなくイデオロギーに分類せざるをえなくなる。逆に、神への信仰が現代の多くのイデオロギー内部に根強く残っており、自由主義を筆頭に、そのいくつかは、この信念抜きではほとんど意味を成さないことにも留意するべきだ」
 私には若干の違和感があるが、確かに共産主義や社会主義の、すべての人が平等、という考え方の根底は、「神」に対して人間は等しくその教えを守るものであるという一神教を起源とするものである。国民主義(ナショナリズム)は、『想像の共同体』(べネディクト・アンダーソン/書籍工房早山)の中で言われているように、宗教や王国というシステムが衰退したから代替として人々に帰属感や永遠性を感じさせる装置として生じたのかもしれない。民主主義も、最善の策(絶対の正しさ)が存在しないから次善の策として妥当なものであり、積極的に何かを行うものというよりは権力の監視に有効性を持つものだ、という出発点を逸脱すると、多数決至上主義に陥る。多数者の考えは変化するものだが、時々において多数者が唱えることを絶対視するならば、それは宗教にほかならないだろう。資本主義もお金というものの価値を信じられるのは、それは無限に交換が続くという前提に基づいているのだ、ということを考慮するとやはり宗教的要素は大きいだろう。自由市場資本主義の渦中にいると、人々は生産を増やし続けることと利益の増大しか見えなくなりがちで、それが絶対的な価値観として共有されると、お金を神とする一神教となる。そして他の多様な価値観をお金に一元化しようとする。これらのような「~主義」はある時代の環境の中で、人が作り出したものであるにも拘わらず、絶対視され始めると宗教になるのだろう。
 政治学者、福田歓一の言葉を引用してみる。(『近代の政治思想―その現実的・理論的諸前提』〈一九七〇年・岩波新書〉)

「しっかりと眼を開かなければ、人間は自分でつくりだしたものに圧倒されて、逆にこの自分でつくりだしたものを拝む。いわば未開人の偶像崇拝にまで戻ることによってこの不安をのがれようとするような、みじめなことになりかねません」

 現在、人間が作り出した主義である自由市場資本主義と民主主義がいびつに結び付いて、社会を大きく歪めている。(歪んでいない社会、というものを定義するのは難しいが……)まず、自由市場資本主義の必然的な弊害として大きな格差が生じている。現在、世界で最も裕福な八人が保有する資産は、世界の人口のうち経済的に恵まれない下から半分にあたる約三六億人が保有する資産とほぼ同じである。そうした中で、多数の人が、生活が困難だと感じている。しかし、それは自己責任だと決めつけられてしまう。そうすると、彼らには逃げ場がなくなる。その絶望感を抱えた、見捨てられたと感じている人々は敵意のはけ口を探すことになるが、それは社会の分断につながる。そこに、敵意をあおりながら、「自分こそ彼らの味方だ」と称するものが現れると、多数者がそこに救いを見出すことになる。すると、多数決を絶対とする民主主義においては大きな権威を持つことになる。感情誘発によって民主主義における正義を獲得するわけだ。これは、もちろん、少数者に対する抑圧や迫害を伴うことになる。こうして、あぶない宗教に近いものが誕生する。これが、今、世界に起きていることだ。
 もちろん、自らの正当性を唱える人たちは、自分の主張は宗教ではないと反論するだろうが、私は宗教だからいけない、と批判しているわけではない。繰り返すが、宗教は必要だ。ジョン・レノンは、imagineの中で、平和に向けて、天国も宗教も国境もない理念を歌った。私の解釈では、天国は天国に行けるものと行けないものを選別するから対立を生む、宗教や国境は外部を敵視するから対立を生む、だからそれらは、人を平和から遠ざけるものになる。だったらいっそそういうものをなくしてしまえばいい、ということなのだろう。しかし、しつこく繰り返すが、人は少なくとも生活圏における境界と境界内での絶対性(宗教)を求めるものだ。それが外部と敵対しないようなありかたを探ることこそ重要だ。どの主義であれ、宗教であれ、原理主義的になると、排他性を持つことになる。それは常に対立と排除を内包しているからだ。

 では、今、私はどのような宗教を持ちうるのか? ここからは私の妄想に近いので戯言として読んでほしい。私が提示したいのは、万物とのつながりの存在、よりよい共生への可能性を絶対的に信じる、という「万物共生教」だ。このコラム「そもそも」(単行本の副題はEverything is connected to everything else. 四月刊行予定)で、示し続けてきたように、私たちは、見知らぬ人と、狩猟採集時代のヒトと、他の動物と、さらには細菌ともつながっている。一人の人間の中にも多様性があり、それらの要素は影響しあいながら一人の人間を形成している。たとえば、キリスト教徒とて、体の、あるいは精神の隅から隅までキリスト教が詰まりきっているわけではない。もちろん仏教徒も同様で、肉体面を取り上げてみるとキリスト教徒も仏教徒も体の仕組みに差異はなく、同じように呼吸しているし排泄している。たまたま生まれた国や環境によって、信じる宗教が異なっただけのことなのだろう。しかし、ホモサピエンスとしての性質を共有している以上、共感可能であるし、すでに同じ地球上で共生している。キリスト教徒とイスラム教徒、仏教徒、さらには無神論者(しかしおそらく何らかの主義という宗教は持っている)間の共感は可能であり、よりよい共生の方向を探ることは可能だ。

 さらには、「万物共生教」は、人間同士だけではなく、他の動物や、さらには細菌との共生も含め、万物とのよりよい共生可能性(他を排除しきらないこと)を確信しよう、という宗教だ。(細菌との共生については第六回で、またノイズの必要性は特に第十二回「ノイズになりたい」で論じた)これは、共生についての正しい認識に基づいたものであるが(⇒第四回~第六回で「社会的ネットワーク」「生態的ネットワーク」について述べた通りだ)、普遍性を持つ宗教となるためには、多くの人が理性的な理解(知ること)を得るだけではなく、つながり(ネットワーク)を実感することが必要だ。人に訴えるには理性的な証明だけでは不十分なのだ。そして、この宗教はもちろん他の宗教(や主義)を排除することはない。かといって、他の宗教と独立して存在するわけでもない。信者間の共感、共生は全ての宗教が共有していることだからだ。それを境界を越えて広げてみようというのがこの宗教なのだ。多様性が大切だとよく言われるが、多様なものがそれぞれに独立して存在している、というのではなく、互いにつながり影響しあいながら多様性を維持していることが大切なのである。そしてその対象を万物に設定するのが「万物共生教」だ。
「万物共生教」には、アニミズムに近い要素もあると思う。自然界の生物や、人が作った芸術作品に対する畏怖の念、さらには一体感を感じることは、この宗教を強化することになる。花を長時間眺めていると、自分と花が主体と客体ではなく、その境界がぼやけて、自分が花に一体化するような感じになることがある。花とつながるわけだ。そういう時に感じる喜びは無上のものだ。この喜びを得るには、自我意識を限りなくなくすることが必要である。自他を分断し、周囲から自分を切り離している限り、一体感は得られない。そもそも、現代人が強く感じている自我の概念(⇒第三回「私以外私じゃない、のか?」)、そこから生じる他者への排除が、平安を損なっているのだ。かなり、あやしげな言説になってきたが、ある意味致し方ない。これは宗教だからである。

「万物共生教」は共感をベースとする宗教なのだが、あくまでも「万物」を対象とするのが重要な点だ。人は自分の想像力が及ばないものに対しては、思考停止をしてしまい、見えないものは存在しないものとしてしまいがちだ。この宗教には、「万物、見えない他者」に対する想像力が必要だ。共感の対象が狭く、また共感が過度になると、排他性が生じる。(第二回で述べた、オキシトシンの働きにもよる)特に、社会的に分断され孤立感を抱える人たちは、感情誘発に反応しやすいので、そうなりがちだ。
 では、どうすれば生活に苦しむ人たちの孤立感を解消し、共感対象を広げることで共生可能性を信じるようになれるのか。これには、『21世紀の資本』(トマ・ピケティ/みすず書房)が示唆しているような、国境を越えた課税制度(特に富裕税)による富の再分配、あるいはベーシックインカムのような制度が必要だと思う。自分の生活が可能になっているのは、さまざまな人の活動の結果なのだ、という共生システムを実感するところが、スタートになるだろう。それが可能になる条件は、まずは、困窮した生活を送っていない人が、困窮している人の状況を想像し、多少なりとも共感することなのだ。つまり、まずはそのような人たちが「万物共生教」に入信することから、人を救うことができる「万物共生教」に育っていくわけだ。
 あやしい宗教勧誘のようになってしまったが、この宗教には、神も教祖も存在しない。超越性もない。しかし、人を絶望感から救うのが宗教の役割であるならば、共生の事実を知り、よりよい共生が生じることで、少なくとも社会的分断、孤立から生じる絶望感から人を救うことにはなる。まずは身近なもの、身近な生き物、自分の近くにいる人たち、そうしたものたちとの、よりよい共生の可能性を信じられるようにすることが出発点だ。現実的にすでに共生しているはずなのだから。そこから徐々にその対象を広げていくと「万物共生教」に至ることになるのだ。

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