西きょうじ「そもそも」
2017/07/10

第十八回 読書再考

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 先日、下北沢のB&Bで河野通和さんとのトークを行った。河野さんは新潮社「考える人」の編集長を務め、そのメールマガジンを三〇〇回以上書き続けてきた人だ。そのメルマガから抜粋して作られた本が、『言葉はこうして生き残った』(ミシマ社)、『「考える人」は本を読む』(角川新書)で、今回はそれらをテーマとしたトークだった。河野さんは「考える人」の紙版が休止になるとともに、新潮社を辞めて、今、次の仕事に向かっているという。五四歳で中央公論新社を辞めたことや、今回新潮社を辞めたことについても結構突っ込んで話を伺った。
 その場で、中心テーマとしたのは、読書、書籍、そして書籍を介した人と人の繋がりについて。読書や書籍は自分にとってあまりにも身近なものになっていて、あえて対象化することも少なくなっていたので、この機会に改めて考えてみることにする。日常的なことを、ふと考え直す機会というのは、とても大切なことだと思う。
 まずは、読書についてしばしば耳にする三つの疑念を検討してみる。

【読書に対する疑念1】
 読書以外にも、知性・情操を育てるものがあるのに、学校教育において読書が特権化されているのではないか。「読書」に過剰な価値を置くのは、もはや前時代的な教養主義だ。さらには、音楽や絵画を鑑賞することも、読書と対等レベルに情操教育になるのではないか。

 まさしくもっともな指摘だと思う。かつては読書をするのが知識人、教養人であるという考え方があった。しかし、今は、知識人、教養人であることそのものの価値が低くなっている。ネットの普及によって、様々な発言が対等に情報化されるようになり、知識人の特権が維持可能ではなくなったからでもある。今や、「読書する人はえらい」という考え方は時代錯誤だと言えるだろう。(しかし、後述するが、「えらい人は読書をしている」というのは実情だと思う)
 学校は読書感想文を生徒に要求し(共感の強要のようにも見える)、読書の重要性を生徒に伝えようとしているが、現状として成功しているようには見えない。「読書の喜び」などと、教師に言われても、読書の喜びを実感したことのない子どもにとってはゲームのほうが楽しいに決まっている。文学には人と人の深い感情が描き出されているらしいが、それなら「ONE PIECE」でも描かれている、と言われると反論できないだろう。また、読書によって自分の生き方を考えようというならば、偉そうな自己啓発書を読むよりも「カイジ」のほうが身になる、と反論されたら黙るしかなくなるだろう。
 学校は、読書感想文の課題図書など決めて(課題図書に選定されると莫大な売り上げになる)、画一的に(模範解答が想定されるような)感想文を書かせるよりも、漫画(キャラクターのセリフが言語化されているという点で漫画を読むことも読書だ)も含めて、好きな本の感想を書かせればよいだろう。教師側は、評価しようとするならば、そのすべての本を読まざるを得なくなるので、とても大変なことになるが。
 感想文を書くというのは、言語で書かれたものに対して、共感したり反発したり解釈したりして、それを他人に伝わるように言語化することだ。これは、大いに言語力(思考力)を鍛えることになる。
 感想を文章にしない場合でも、言語力を鍛えるには、言語に接することが最重要であり、それには読書が最も効率的だ。子どもには、絵本でも漫画でも、ともかくも言葉で表現されているものに楽しさを見出す経験をさせることが出発点になる。
 そもそも、ホモサピエンスが生き延びてきたのは、言語によって他者との共同作業の効率を高めてきたからである。言語によるコミュニケーションの重要性は、これからも変わらないだろう。AI化が進み様々な作業が機械化されればされるほど、言語による意思伝達能力(その言語にはプログラミング言語も加わってくることになるだろう)が、必要になる。とりわけ相手に意思を伝えなくても、フォーマットに従えばできる、という種類の仕事は、もはや人間が行う必要はなくなるだろうから。
 音楽や絵画でも情操教育になるではないか、という意見ももっともではあるが、おそらく人間はそれらの刺激に対しても、鑑賞からある一定時間を経過したあとでは、言語化して脳内処理していくことになる。すると、芸術鑑賞に関しても、また、その感想を人と共有するためにも、言語力を鍛えることは重要な要素である。
 読書はもはや特権階級的教養人になる手段ではないが、現代を生き抜くために必要な言語力を身に付けるには、最も有効な手段だといえるだろう。

【読書に対する疑念2】
 情報獲得手段として読書よりもネットのほうが有効ではないか。書籍化には時間がかかるし、読む場合にも検索機能がないので、効率的ではない。

 当然のことながら、現代社会における表層的な情報獲得手段、という点では書籍はインターネットにかなわないだろう。また、ネットだと検索機能によって拡張した情報を獲得しやすいという点には反論の余地もない。ハイパーリンクによって膨大な情報を横断することも可能だ。つまりネット検索で簡単に得られるような情報獲得という点では、読書は圧倒的に非効率的だといえるだろう。裏を返せば、そのような情報だけならば、わざわざ本にする価値はないともいえる。
 では、読書は情報獲得手段になりえないか、というと、そうではない。ネットで簡単に手に入るのは点としての情報であり、さらにリンクを検索していくことで線にはなるのだが、面、つまり全体像、の獲得は難しい。本の場合、一つのテーマに対して、情報が整理されているので、テーマの全体像がつかみやすい。また、通常の場合、ファクトチェックもしっかりされているという点で信頼性は比較的高い。簡単にネット検索できる現代において、断片的な知識を増やすことには大して意味はない。知識量が権威につながる時代ではないのだ。しかし、あることを聞いて、別のあることを検索しようと思うこと、つまりググれる力は重要だ。異質なものをつなげることによって創造的な発想が生まれるからだ。そしてそのためには全体の見取り図的な知識があって、様々なところにフックがあるという状態が望ましい。そのような大きな枠組を作るには読書が有効だろう。また、ある情報について判断するには、その根底に批判能力、言語力が必要であることはいうまでもない。
 また、現代のようにあらゆる方角から情報が絶え間なく飛び込んでくる時代において、情報処理に疲弊しきってしまわないためには、情報を選択する能力が必要だ。また、ポスト・トゥルースの時代には、情報の正しさを判定する、あるいはもはや情報の正しさを判定しきれないにせよ、多くの情報に接して自分なりの判断をする能力が必要だ。そういった能力は、フローする情報からではなく、紙にとどめられた文字を読むことから身に付けるものだろう。フローする情報に接しているときには、思考も流されがちだからだ。フローする情報と読書から得る情報の違いについては後述する。
 先に「読書する人はえらい」わけではないが、「えらい人は読書している」と述べたが、それは次のように説明がつくだろう。現代、えらい人(その定義は難しいが、とりあえず社会的成功者をイメージしておく)になるには、新しい考えを思いつくことが一つの有効な手段である。新しい考えを思いつくには、たくさんの古い考えに接していて、それを新たな観点からつないでみることが必要だ。そして、時間、空間を超えて多くの他人の考えに接するには読書が効率的だ。また、読書の中で多くの人や出来事に出会うと、自分が体験していない事態への想像力を鍛えることもできる。すると問題解決能力も高まることになるだろう。(「ONE PIECE」の作者である尾田栄一郎さんも、かなりの読書量だという)
 遺伝子研究の権威である村上和雄さんによると、人間の遺伝子の九九・五パーセントは同じで、能力差は個々の遺伝子をどれほど「スイッチ・オン」の状態にしているかということから生じるという。スイッチをオンにするきっかけとしては、他者との出会いという事件が考えられる。読書を通じて、自分の想定外なレベルの他者と出会うことは、スイッチをオンにすることにつながるだろう。
 ビル・ゲイツや投資家のウォーレン・バフェットのような世界一、二位の大富豪となった人たちの読書量が多いというのも納得のいく話だ。バフェットの場合は一日の三分の一を書籍、資料、雑誌、新聞を読むことに費やしているといい、書籍を読む読書とはやや趣が異なるが、ゲイツは今でも平日には一日一時間以上、週末にはさらに多くの時間を読書に費やしているという。自宅には個人図書館があり、一万四〇〇〇冊以上の本が置かれている。もちろん、情報獲得のためだけではなく、思考のための読書も大切にしている。ビル・ゲイツが「金持ちになる10の方法」みたいな、ハウツーを並べた自己啓発的なビジネス本を読んでいる姿は想像できない。(読んで笑っているかもしれないが……)
「知識の幅を広げるため、毎週少なくとも一冊以上のニュース週刊誌を、隅から隅まで目を通す。興味のある科学やビジネスのページしか読まなかったら、雑誌を読む前の僕と読んだあとの僕には何の変化もないからね」という彼の発言から、自分にとって想定外な情報に出会うことで、スイッチをオンにしようという自覚を読み取ることができる。
 ビル・ゲイツと共に働き、マイクロソフト日本法人の代表を務めた成毛眞は、本を読むためにすべての移動にタクシーを使っているという。一日五〇〇〇円で二時間、年間一〇〇万円で四〇〇時間を買えるのであれば安いのではないか、ということだ。彼が言うには、周りの経営者やクリエイティブな人の中で、本を読んでいない人はいない、ビル・ゲイツのような優秀な人達に共通していることは、「良い本」を「大量」に読んでいることだと述べている。
 ここでいう「良い本」は、情報獲得のための本だけではなく、以下に述べる思考のための本も含まれる。

【読書に対する疑念3】
「読書は、他人に物を考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた後を反復的にたどるにすぎない」(ショウペンハウエル「読書について」)つまり、読書は受動的であり、模倣的な思考しか生じない。

 これは疑念2の情報獲得の手段としての読書ではなく、評論・思想や歴史などを読む、思考のための読書についての疑念だ。これについては、『読書と社会科学』(内田義彦/岩波新書)が見事に解答している。
 この本には、「本を読んでも本に読まれるな」と書かれている。つまり、読者は著者の主張に自分の考えを乗っ取られてしまう危険性があるというのだ。確かに無防備に読書すると、著者の主張を絶対視して、信者化する可能性はあるだろう。しかし、この本では読者が意識的に著者の主張に一定の距離を取ろうとすることで、それを防ぐことは可能だという。
 もちろん、初めから筆者に対して否定的に読むのでは読書する価値はない。そこで、「著者の主張を仮説的に信頼して」読者側も自分の判断力を使いながら読むことが大切だという。「深いところで著者を信じることは必要ですが、自分を捨てて著者にもたれかかっちゃいけない。その時その時の自分の読みをとにもかくにも信じてそこに自分を賭ける」という読み方を提唱し「信じて疑え」という表現をしている。そのような読書によって、自分の思考を鍛え、練り直していき、社会に対するスタンスを築き上げていくことになるのだ。
 そして、このような読書についてはスローリーディングが重要だ。また、反復的に読むことにも意味がある。これはスローフードをゆっくり味わい自分の血肉にする、ということにも似ている。(参照:第十六回「味わうための準備」)一言一言きちんと読み取ろうとして読み進み、時に、止まって考えてみる。つっかかりがある場合は、戻ってその部分まで読み直してみる。また、自分のその時々の思考とぶつけてみる。とりわけ長い間多くの人に読み継がれてきた古典は、自分が変化している限り、読むたびに異なるものに出会うことになる。(たとえば、「論語」など、年を重ねたころに読むと、昔読んでいたのとは別の本のように思われる)このようにして獲得する真の批判能力(マイナスなものを見出すことではなく、マイナスとプラスを識別してプラスなものを発見する力)は情報獲得型の読書の土台を形成することにもなる。
 さらには、現代社会においては、情報を遮断する時間も必要だ。インターネット新聞「ハフポスト」の創設者であるアリアナ・ハフィントンは、毎晩デジタル・デトックスの時間を設け、「自分を再生する時間を大切にしている」と語っている。そして、読書は、注意が散漫になってしまいやすいこの世界において、「静かな革命の試金石」となるものだという。スローリーディングによって、情報のフローから身を引き、ゆっくりと本と向き合う時間を過ごすことが、思考の疲弊を防ぎ、短絡的ではない思考力を鍛えることにつながるのだ。
 三つの疑念に対して答える形で読書の重要性を述べてきたが、このコラムを読むようなすでに読書になじんでいる人には釈迦に説法だったかもしれない。自分も読書は生活から切り離せないものとなっているが、なぜ読むか、というとただ楽しいから、としかいいようがない。努力しながらもなかなか前に進まない苦行のような読書もするが、それでも本人にはそれも楽しいのだろう、と思う。実際のところ、教養や批判能力を身に付けようと意識して読書することはないし、世間で成功しようと思って読書することもない。さっきまで書いていたことは何なのだ、と巨大なブーメランが放たれたようだ。
 しかし、なぜ楽しいのだろう。一度楽しさを味わってしまったから、という解答が一番適切なように思われるし、手元に文字がない時には、ミネラルウオーターの成分表でも読みたくなるような活字中毒患者だか
らという解答も正しい。しかし、読書すると、無知な自分との遭遇、他者との遭遇が生じるからだという解答も捨てがたい。一冊の書籍は多くの人の努力によって作られるものであり、それを手にするとそれぞれの人の思いが伝わってくる。また様々な本を読むと様々な書き手、様々な登場人物と出会うことになる。他者と出会ってスイッチがオンになることは、快感を伴うものなのだ。また、他者の思考に直面して自分の思考が宙づりにされてしまう感覚は、新たな自己を形成する過程として不可欠なものだろう。
 ここまで、読書について書いてきたが、ここからは、紙の本の未来はどうなっていくのだろう、ということについて。
 もちろん、情報記憶装置としては、情報は電子化されるのが望ましいだろう。膨大な情報を紙の本に頼ることに意味があるとは思えない。しかし、個人の読書という観点から見ると、電子書籍が紙の本を近い将来に駆逐するとは思えない。もちろん、電子化の広がりと、読書人口の減少の影響で書店が非常に厳しい状況になってきてはいるが、それでも紙の本が失われてしまうことはないと思う。(願う?)
 実際に、電子書籍が広く流通しているアメリカで、現在紙の本への回帰傾向が見られ始めている。
 これは何なのだろう、と周囲を見てみると、アナログレコードへの回帰傾向にも気づくことになる。アメリカでは、アナログレコードの売り上げは二〇一五年の段階で前年比四九パーセント増の八〇〇万枚超となっている。イギリスやドイツ、日本でもアナログレコードの売り上げは急上昇していて、イギリスでは一九九六年以来一八年ぶりに一〇〇万枚を突破した。このコラムでたびたびテーマにしてきたノイズがある温かさのようなものが求められている時代なのかもしれない。もちろん、ストリーミングサービスによって、音楽を断片的に商品化する流れに拒絶反応をおこしていることもあるだろう。そして、さらに、LPの三〇センチ四方のジャケットはインテリア性も高く、持った時の質感もある。ある意味身体的に感じるものだと言えるだろう。
 紙の書籍というものも同様に身体的なものである。表紙や紙の質、さらには持った時の重量感などは電子書籍では感じることはできない。本を作る場合、ページの余白の取り方やフォントの選び方だけではなく、文字組で一行に何文字入れるかも重要な要素となるが、現段階では紙の本のほうがよく考えて作られている。特に文字組は作家の文章の息遣いやリズムを感じ取れる編集者、デザイナーでないと、変なところで行が変わることが続いてしまい、非常に読みにくくなる。このコラム「そもそも」も、小説新潮の組みで読むのと、ウエブ上で読むのと、書籍化されたものを読むのとでは、ずいぶん印象が異なると思う。実際は、かなりリライトして書籍化しているから同じものを読んでいるわけではないのだが、同じ文章だとしても印象は異なるはずだ。
 バーチャルが進行する時代の中で、身体的にダイレクトに感じ取れるものへの欲求が高まっているのかもしれない。古書に誰かの書き込みを見つけると、妙に本が息づいて見えるのも、つながりを身体的に感じ取ることがあるからかもしれない。余談だが、女子高生が、このごろインスタントカメラ(このコラムでも紹介した「写ルンです」など)を使い始めている、という。アイフォーンは「画像がきれいすぎてつまらない」のだそうだ。とても敏感な時代感覚なのだと思う。
 さらに、重要なのは電子書籍と紙の本では読むときの脳の使い方も変わってくるらしい。『ネット・バカ――インターネットがわたしたちの脳にしていること』(ニコラス・G・カー/青土社)では、ある単語ひとつをとっても、コンピュータの画面上で読むときと、印刷された文字として読むときでは、脳が受ける刺激が異なるという。印刷された文字を読む場合、「ひとつの静止した対象に持続的で途切れることのない」注意や思考をむけることになる。一方、大量の情報が行きかうインターネットやコンピューターの画面上で文字を追うと、「間断なく反射的に焦点を移すこと」に向かいがちなのだ。これは電子書籍にも、幾分あてはまるかもしれない。電子書籍ではフローする情報のように接しがちで、止まったり、自分のペンでメモを取ったり、戻ったりすることが少ない。紙の本をゆっくり読むときには、止まったり戻ったり、自分でメモをとったりすることが増える。この違いは大きいと思う。そうすると、情報獲得型の読書には電子書籍、スローリーディングには紙の本という使い分けが望ましいということになる。
 私自身は大量の書籍の置き場所に困っており、また、同時に数冊読みたいことも多いので、紙の本の必要性を感じない場合は、電子書籍を購入している。そうなると、一層、紙の本がいとおしくなる。ただ意味もなく、書棚を並べ替えたり、触ったり、匂いを嗅いだりすることさえある。ちなみに私の場合、書棚の本を並べ替えると、思考が活性化することが多い。全く無関係なものがつながる現場にいる、というような快感がある。基本的に本は電子書籍にして、とりわけ書籍というものにする価値があるものに限って、コストをかけて丁寧に書籍化する、というように紙の本に特権を持たせることがよいのではないだろうか。
 最後に河野さんの『「考える人」は本を読む』に登場する二冊の本から、書店を営む奈良敏行さんの言葉を引用して今回のコラムを終えることにする。書店員を介して紙の本を買うという、つながりの生まれる場が、書店であって、そこには人から人へと手渡される本の重みがある。

「書店という空間は、現実としては閉鎖的な器である。壁際が書棚に埋め尽くされているので、窓も少ない。しかし、一冊の書物に出会った瞬間、読者の意識や観念は拡大し、精神は大空へと飛翔する。人生観や心の希求するものが限りなく浮遊していく。本屋という仕事も、日ごろは地を這うような地道な作業の繰り返しだが、書物を扱っていると、不思議な精神の拡張感がある」(『本屋はサイコー!』安藤哲也/新潮OH!文庫)
「どの本を何冊売ったところで、その一人ひとりが受け取った一冊のほうが、ずっと重いですよね」(『「本屋」は死なない』石橋毅史/新潮社)

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