西きょうじ「そもそも」
2018/04/06

最終回 学び続けること~生のダイナミズムの享楽へ~

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 このコラム連載も最終回になる。最後のテーマは「学び続けること」。
 私たちは近い将来に人生一〇〇年という時代を迎えることになるだろう。カリフォルニア大のHuman Mortality Databaseによると、二〇〇七年生まれの子どもの半数は、ドイツでは一〇二歳、イギリスでは一〇三歳、アメリカ、イタリア、フランス、カナダでは一〇四歳、日本では一〇七歳まで生きるらしい。医療技術の革新、健康への配慮という条件に後押しされて、さらに長く生きることになるかもしれない。もちろん、その背後には貧富格差による健康格差、さらには寿命格差という深刻な問題もあるが、ここではそれは取り上げないことにする。
 人生一〇〇年になると、八〇年以下の平均寿命をベースに設計された日本の年金計画をふくめた社会設計は大きな変更が不可欠だろうし、個人の人生についても再設計が必要になるだろう。年金支給年齢が先送りされ、さらに支給額が減ってしまう状況の中で長い人生を送ることになるわけだから。
『LIFE SHIFT』(リンダ・グラットン、アンドリュー・スコット/東洋経済新報社)は、人生一〇〇年時代の人生設計を取り扱っている著作だ。著者によると、これまでは三ステージの人生設計が基本だった。すなわち、教育を受けるステージ、卒業後、仕事をするステージ、退職後のステージだ。退職後の生活期間はせいぜい二〇年くらいと見積もられていた。しかし、一〇〇歳まで生きるとなると、六五歳まで働くとしても、退職後の期間が三五年も続くことになる。すると、その期間の経済的生活、またQOL(生活の質)を維持することは難しくなるだろう。六五歳までの貯金と年金で三五年間、一定の質を保った生活を続けることは通常かなり難しいはずだ。そこで、日本でも現在「生涯現役」というフレーズがよく聞かれるようになっている。しかし、そのイメージは第三ステージを延長する、というものであることが多い。
 著者は、若い世代は人生を四ステージ、あるいは五ステージで捉えるべきだと主張している。確かに一部の職人的な仕事に従事する人を除けば、同じ仕事を五〇年も六〇年も続けることは難しいだろう。特に、AIやロボットが急速に進歩している時代に、同じ仕事にとどまり続けることは困難だ。これからの一〇年か二〇年で、AIの進歩によって、今ある仕事の半分近くがなくなるだろうという予測もある。そこで、第三ステージから第四・第五のステージへと移行する、つまり新たな職に就く必要がある、と著者は言うのだ。そして最終ステージにおけるQOLは、その段階における経済的な資産、さらには精神生活の豊かさによって決まる、と。高齢化先進国である日本では、老後破産が問題になっており、経済的側面についてよく語られている。しかし、経済面だけが問題なのではない。経済状況にも関連することだが、老後の「孤独死」がますます増大することになると予測されている。老後の生活の質を維持するには物質的資産(お金や住居)だけではなく、人的資産(友人、隣人、趣味も含めよう)も大切なのだ。「孤立」という問題がますます深刻化する時代であるからこそ、孤立してしまわない環境の中にいられるようにすることは非常に大きな課題となる。それには、新しい環境を作り(見いだし)、これまでとは異なる形でつながりをつくり出す力が必要になる。自分を変えていくというのは、新たなことを学ぶことによって身につく力だ。
 話を戻そう。第三ステージからさらにステージを移行するには、新たなことを学ぶ必要がある。これまでとは異なる仕事に就くのだから当然のことだ。しかし、知識を増やして既存の資格をとる、というようなことが求められているわけではない。資格が必要な仕事ほど、AIの進化によって消滅しやすい仕事だからだ。
 本書で著者は、ステージ移行の様々なスタンスを述べていて、非常に興味深いパターン分けがなされているが、それについては本書を参照してみてほしい。私自身は、今の若い人は若い段階でどんどん多くのステージを経験していくといいのではないか、と考えている。現代はこれまでの歴史の中で最も急速に変化しつつある時代だ。その中で、時代に取り残されずに、時代に先駆けて走ろうとするならば、何度も脱皮する必要があるだろう。次々と脱皮できる人にとっては、個人として未来を切り開く可能性に開かれた時代になりつつあると思う。テクノロジーの進歩によって、これまでの社会的制約が緩和されていくからだ。しかし、そうはいっても、途中のどこかで止まって、腰を落ち着け、次のステージに向けて新たなことを学ぶ段階も必要だと思う。先に書いたように、新たなことを学ぶというのは、単なるスキルや知識を身につけるということではない。そういうものは走りながら身につけ、利用しながら走ればよい。
 では、学ぶとは根本的にどういうことなのか、順を追って説明していくことにする。
 AIが進化していく時代に、人間には、人間的共感能力、意思決定能力、創造力、イノベーションを起こす能力といった力が求められるとしばしば言われている。少なくとも、これまでに経験したことがない環境に個人としてどう適応するかを考え、行動する能力が求められているとは言えるだろう。その状況においては、あらかじめ問いが与えられているわけでもなく、これといった正解が一つ決められているわけでもない。これは日本における従来の(現在の)学校教育とは真逆の方向性だと考えられる。
 そもそも、近代、つまり産業革命以降の教育は、基本的に多くの人間を、機械的生産効率が高まるように画一的に教育することだった。皆が同じ時間に働くほうが機械の稼働効率は上がるだろうし、同じ知識を共有しているほうが労働の連携をとりやすいだろう。画一化した教育を与え、一つの価値観を共有させ、同じ基準で能力を判断することが国家、企業の生産力向上に有効だったのだ。その時代においてはとても正しい戦略だったといえるだろう。
 それは、日本では戦後の高度成長期に極度に顕在化されることになる。学校で学年ごとに同じ教育を受け、できる限り同じ価値観を持たせ、同じ方向を向くようにさせる。同じ基準で生徒の能力を判断し、社会のニーズに合う人間を作り上げていく。多くの若者は高校あるいは大学卒業と同時に一斉に仕事に就き、ひとたび入社すれば、レールから外れない限り昇給が保証される。与えられた役割を要求された通りにこなしていけば退職年齢まで仕事を続けることができ、退職後は退職金と年金で生活できる。レールから外れない限り……。
 この安心感のため人はそれぞれが会社のピースとして生きることに不満を感じずにすんでいた、というよりもレールから外れずに生きられることに満足していた。多くの人が均質な教育を受けているので、マスメディアが提示する人生プラン、購買行動の促進(車を買う、マイホームを住宅ローンで手に入れる、何歳でどの段階を通過するべき、といった宣伝行為)に、簡単に誘導された。それだけにレールに乗っていない人間に対しては、同調圧力に負けない特異な力を持つ個人への憧れの念、あるいは、レールに乗れなかった落ちこぼれへの侮蔑の念をもって、自分たちとは異なる存在とみなすことになる。こうして多くの人が同調し、そのことに安心感、幸福感をもちつつ、一丸となって国家、企業の生産力を高めてきたのだった。個人よりも集団が重視されることで、日本は高度経済成長を遂げることができたということもできるだろう。
 しかし、新たな産業革命(第四次産業革命)が生じつつある時代に突入して、従来の教育方法を受け入れるだけでは適応できなくなりつつある。第四次産業革命とは、蒸気機関の発明(第一次・一八世紀後半から一九世紀)、電力の活用(第二次・一九世紀後半から二〇世紀)、コンピュータによる産業の変化(第三次・二〇世紀後半)、に続くIoT(Internet of Things)、AI(artificial intelligence)による産業構造の変化(AIはロボットも含み、製造業に関しては3Dプリンターを含むと考えられる)のことだ。あまりにも急速に進化しつつあるので、五年先にどこまで到達することになるのか予測を立てるのも難しいくらいだ。
 予測可能なことを論理的、合理的に実行できるようになる、というのが戦後の日本の教育が目指してきた方向性であった。簡単に言うと、人に言われたことを的確に実行する、与えられた役割(ロール)をきちんとこなす、そういう能力が画一的な基準において高く評価されてきたのだった。しかし、今やその領域はコンピュータに任せてしまうことができる時代なのだ。つまり、あらかじめ決まった正解に素早く到達し、決められた手順を正確に実行するだけの役割は人間が果たす必要はない。もちろん既存の社会に対するある程度の適応力が必要だということは言うまでもない。しかし、それだけでは足りない、ということがポイントだ。もはや模範解答が存在しない時代に突入しつつあるからだ。これまでイノベーションを起こしてきたのは、未知の非合理的に見える領域に突入していけるタイプの個人だった。既存の価値観にとどまることなく、これまでの経験則に依存しきるのでもない、いわばレールからはずれることのできる個人だった。第四次産業革命の時代には、多くの人が多少なりともそのような資質を持つことが必要になるのではないか、と思う。そうでないと、これまでに経験したことのない環境の中で新たな移行を行うことは難しいだろう。もはや皆が同様に指針とすべきロールモデルは存在しないのだ。だから、学校教育は方向転換を行い、問いを自ら発する力、答えのない問いに向かう姿勢を教え、様々な問いと様々な解答を許容できるような柔軟性を高めていく必要がある。学校だけでなく、社会も、個人が個人として生きる多様性を許容しながら、社会的分断を防ぐためのコミュニティー形成を可能にするような社会への緩やかな移行をする必要があるだろう。
 話を戻そう。新たな移行には「学ぶ」ことが必要だと先に書いた。しかし、「何を学ぶのか」と問われても、未知の環境に対する答えなど提示しようもない。答えられるのは、「学び方を学ぶ(身につける)」ことは何を学ぶかよりも役に立つだろう、ということだけだ。
 学ぶ対象は常に自分にとって未知のものになるわけだが、対象が異なっていても、学び方のプロセスには共通する部分が多い。現在の学校教育では、しばしば知識を増やすことが学ぶことだと考えられている。もちろん、知識を増やすことは不可欠だ。「知識よりも思考力」と教育関係者が口にすることが多いが、知識に基づかない思考など薄っぺらなものだ。グーグルで調べればすぐにわかるような知識(歴史の正確な年号など)は、覚えてもどうせ忘れるし、検索すればすむのだから覚えても意義があるとはいえないだろうが、どの時代にどういう背景でどういう事件があったか、は基本知識がないと思考しようもないし、キーワードが思い浮かばない限り検索しようもない。だから、核心的な知識を増やすことは極めて重要だ。しかし、それだけでは不十分だ。知識が増えれば、あるいは問題の解き方についての知識が増えれば、思考は硬化しがちになるということにも留意する必要がある。また、半端な知識が思考の妨げになることさえある。つまり、自分の知見を正しいものだと思い込んでしまうと、それを検証しようとする場合に、それを支持する情報、データばかりに目がいき、反証する情報やデータを無視しがちになるということだ。(確証バイアスという)。これは学ぶ姿勢を失ってしまった結果生じる現象だ。ネット上で見られる右翼と左翼の分断、没交渉性は確証バイアスの好例であり、いずれもが学ぶ姿勢を放棄しているのであれば、いくら議論しても(もはや議論さえ生じなくなっているが)、対立の解消も新たな知見の誕生も不可能だ。
 では、再び話を戻すが、「学び方」とはどういうことなのだろう。一言で言うと、これまでの自分の考えに固執せず、場合によってはそれと決別して、新たな対象に没入する体験のことだ。その没入は、身体性を伴うものであることが望ましい。心も体も新たな対象に没入しきる段階を経て、新たなことを学ぶ(身につける)ことができるのだ。それを何度も繰り返しながら、つまり、前進し後退し、また前進し後退する、ということの繰り返しによって、少しずつ新たなことを身につけ、変化していくというのが「学ぶ」ということなのだ。
 エジソンが行ったフィラメント(電気を光に変える電球の発光部)の材料探しを思い起こしてみよう。これならばフィラメントとしてうまくいくはずだ、と思う物質を実験してみるが、うまくいかない。そこで、異なる物質を試してみる。またもうまくいかない。何千回も様々な物質を試した後で、木綿糸にタールを塗ったものを使ってみる。ようやく、四五時間持つ白熱電球の発明に成功した。しかし、四五時間では実用的ではないので、さらに探し続ける。偶然、研究室に転がっていたお土産の扇子が目に入る。その骨に使われていた竹を試してみる。すると連続点灯時間が二〇〇時間を超えた。竹という解答を得て、さらに世界中の竹を試していく。最終的に、京都の竹を炭にしたものによって、一二〇〇時間連続点灯に成功した。
 エジソンは成功に至るまでの数々の失敗について、「これらは失敗ではなく、この物質ではうまくいかないとわかったという点において成功なのだ」とコメントしたと言われている。対象に没入し、うまくいかない物質を手放し、新たな物質を試し、一つの領域の中で試行錯誤を続ける。そして偶然に目にした予想外のものを試してみて成功する。(「学ぶ」姿勢がなければ、転がっている扇子などには目もくれなかっただろう)ここに「学ぶ」ことの本質があるように思う。与えられた問いではなく、自ら問いを立てる。その独自の問いに没入し、試行錯誤を続ける。しかし、偶発的に飛び込んでくる情報を排除しない。そのような過程こそが「学ぶこと」なのだ。ゴールに到達することが「学ぶこと」なのではない。答えが出なくても、この過程そのものが生む喜びを体験する、つまり「学ぶこと」を喜びとして体験する。できれば、学校教育の段階でこの経験をしておきたいものだと思う。すると、ステージを移行するどこかのフェーズで学ぶ必要が生じたときに、新たな対象に対して同様のことを行うことがたやすくなるだろう。そしてゴールにたどり着かなくても途中で中断してかまわない。いや、新しいステージへ向かうための「学び」であるならば、むしろどこかで中断した方がよいだろう。ゴールに到達することに固執すると、視野狭窄状態が永遠に続くことになりかねないからだ。「学ぶこと」自体が、これまで自分にたまった澱のようなものを流し去り、新たなものを投入し、さらにキャパシティを拡大する。これが新しいステージに向かう準備になる。
 ここまでは、学ぶことをライフステージ移行のための、手段として考えてきた。
 ここからは、学ぶことについて、角度を変えて考えてみることにする。以下の内容は私が昔から講義で言い続けてきたことだが、最近読んだ千葉雅也『勉強の哲学――来たるべきバカのために』(文藝春秋)、『動きすぎてはいけない』(河出文庫)に触発されて(誤読しているのかもしれないが、プルーストは「すべての誤読は美しい」と言っているので容赦願う)、思考がとても整理されたように思う。
 特に前者『勉強の哲学』はこのコラムの読者にはとても参考になるだろうし、楽しめるだろう。一読をお薦めする。
 何かを学ぶというのは、新たなことを外部から取り入れ、それを自分のものとして消化することだ。学ぶことによって自分の思考(内面)に変化が生じる。何かを学ぶと学ぶ前の自分とは変化しているわけだが、学んでしまうと学ぶ前の自分に戻ることはできない。よく考えてみると学ぶとは恐ろしいことだ。他者(自然物であれ本の著者であれ学ぶ対象)によって、それまでの自分(の考え)が不可逆的に破壊されるわけだから。しかし、これは創造に向かう破壊でもありうる。
 ここで、自己は外部環境とのつながり(生物学的ネットワークや社会的ネットワーク)によって形成されているということを思い出してみよう。すると何かを学んだあとは、そのつながり(特に社会的ネットワーク)のままでは居心地が悪くなるはずだ。これまでの自分が最適化されていたネットワークに、新たな自分が適合しているはずがないからだ。人間関係で考えるとわかりやすいだろう。自分が変化してしまうと、今までの仲間とこれまで通りに付き合うのは難しくなる。酒を飲まなくなるとか、映画の好みが変わるとか、新たな趣味にはまり始める、といったようなことでも人間関係の在り方が変化する可能性もある。付き合わなくなる相手もいるだろうし、関係性を変化させつつ付き合い続ける相手もいるだろう。もちろん、新たに付き合い始める人もでてくるはずだ。話を戻すと、学ぶことによって、いくつかのつながりが切断され、いくつかのつながりは更新され、新たなつながりが生み出されることになる。しかし、しばらくの間は、以前の環境との不適合に居心地の悪さを感じることになるだろう。
 そのような居心地の悪さをあえて作っていく必要があるのか、と思うかもしれない。おそらく、そうしなければいけない必然性はない。しかし、そうしたほうがいい、という理由はいくつかあげられる。
 まず、繰り返しになるが、自己は外部との関係性によって形成されるものだ。単行本『そもそも』の副題はEverything is connected to everything elseだった。あらゆるもの(人)は社会的ネットワーク、生態的ネットワークに組み込まれており、決して単独のままで存在しえないのだから、原理的に孤立することはないのだ、ということを示すものだった。現代社会において、孤立(感)が大きな問題となっているからだ。しかし、逆につながり(特に社会的ネットワーク)を過剰に意識してしまうと、がんじがらめにされてしまって身動きしづらくなる場合もある。むら社
会の閉塞感、不自由さを考えると、よくわかるだろう。
 外部環境に支配された状態、あるいは環境に最適化した状態が続くと、ダイナミズムを失い窒息してしまう可能性もある。人間関係で考えてみるとわかりやすいかもしれない。いつも同じメンバーとのみ付き合い続けていると、自分のキャラが固定されて、そのキャラから逃れるのが難しくなってしまう。同じキャラを演じ続けなければいけないという義務感によって自分の持つ可能性、多面性が押しつぶされてしまうような感じになるだろう。これはうつ病の原因にもなりうるものだ。前回のコラムでは、うつ病からの脱出法として、新たな弱いつながりがつくられる環境に入ること(人薬(ひとぐすり))、あるいは、近しい人たちとのつながりをフラットなものとして結びなおすこと(オープンダイアローグ)を示した。うつ病ではなくても、人間関係を更新することは、閉塞感に支配されてしまわないために必要なのだと思う。また、個人の苦しみは環境の更新によって解消されうるものだということも重要だ。
 また、過剰な人間関係(数であれ濃密度であれ)は、人を息苦しくさせる。そういう場合はつながりを切断する必要があるだろう。これは、SNS上で、様々な人への反応を余儀なくされる状況を考えればわかりやすいと思う。あれやこれやのコメントに「いいね」を押し続けることが強要される状態など考えただけで窒息してしまいそうだ。そういう場合はつながりを切断する必要がある。しかし、やみくもに片っ端からつながりを切断すると、孤立、孤独という現代病(イギリスでは孤独省を設立したくらいだ)に陥ることになるし、つながりを失うと自己を失うことになる。しつこく繰り返すが、自己は関係性によって成立しているものだからだ。
 すると、過剰なつながりを選択的に切断するということになるわけだが、そのためにはこれまでとは異なる視点を身につけなければならない。自分がどういうつながりの中にいるのかを、自分から離れて客観視する必要がある。それは自分ではない対象に没頭する、つまり学ぶことによって得られる視点だ。日常的な惰性から脱却し、自己を対象化して初めて、自分をとりまく様々に交錯するつながりが認識でき、その認識に基づいて選択的につながりを切断する、つまり能動的な自己破壊が可能になる。
 もちろん、つながりを切断したら自由になれるというわけではない。自己が関係性によって成立するものである以上、あらゆるつながりから解放されるということはありえないからである。また、煩わしければどのつながりでも自由に切断できるというわけでもない。たとえば、自分を自分の過去と切断してしまうわけにはいかない。自分が生まれつき持っている特性(遺伝や生まれた環境)や自己形成の歴史から完全に逃れることはできないからだ。自己形成の歴史を概観して現在の自分を新たな視点で位置付けることは可能だし、また必要なプロセスだが、過去のしがらみからすっかり解放されてゼロから始めよう、などということは、安易な思考放棄、責任放棄に他ならない。これはこのコラムで自由意志について述べたことに通じる。無限な自由を妄想するのではなく、有限性への自覚を出発点におくべきだろう。
 さらに、外部環境自体も変化していくものだ。すると、適応していくためには自分も変化する必要がある。変化を拒み、現在のアイデンティティに固執していると、つながりが健全に機能しなくなることになる。新しい周辺機器と接続できなくなったiPodのケーブルみたいな存在になってしまいかねない。自分をバージョンアップしてはじめて、変化していく外部環境との健全なつながりを維持できるのだ。
 そう考えると、学ぶことで自らを変化させるのは有効なことであり、その中で、これまでのつながりのいくつかを切断し、新たな形で結びなおす、あるいは新たなつながりを作るというダイナミズムこそが、求められているのだという結論に達する。もちろん、あえてそうしなくても、表面的に少しだけ変化をうけいれることで、これまで通りの延長線上に生をつないでいくことも可能ではあると思うが。
 学ぶ対象は書物に限るわけではない。建築家のアントニオ・ガウディは「人間が作り出すものは、すでに自然という偉大な書物に書かれている」と述べている。散歩中に見かける樹木や草花、コケやキノコからも学ぶことは多い。しかし、自分の変化を促すほど学ぶには、対象にのめりこむことが必要だ。私自身、コケをしっかり観察し続け、集中的に知識を増やしていくことで、ものの見え方が大きく変わった時期がある。その過程においては散歩していてもコケしか目につかないという状態になり、コケが目に入るたびに観察し触ってみていた。そうすると、目的地までまっすぐに歩いていくことさえ難しくなる。視野狭窄的にコケにのめりこんでいる状態がある程度続いた頃に、偶然目にしたキノコの存在が越境してくる。そうなると、今度はキノコにはまりながらも、自分の中に菌の世界が広がり始める。その結果、自分をとりまく環境の中に新たなつながりを発見し、自分の思考にも新たなつながりが生じていることに気づく。
 そうはいっても、学ぶという行為で最も有効性が高いのは読書だろう。自分の言葉でない他人の言葉に虚心坦懐に向き合うことで、自分の言葉、思考がのっとられ、自分の世界が破壊されることになるからだ。読書に関しても、ある本に出会って触発されたら、その狭い分野に限定して集中的に読みこむのが良いと思う。その分野のことしか頭にない、という状態を一時的に作ってみるのだ。縦に深く掘り下げていくと、横に広がる水脈にぶつかることもあり、そういう時には目の前がいきなり開けたような感覚が生じる。
 それとは逆の方向性として、『本は10冊同時に読め!』(成毛眞/知的生きかた文庫)という本がある。このタイトルは、読書をビジネスに生かしたければ異なる分野を越境しろということだ。そうすることで思わぬものがつながることもあり、新たなアイデアを得られることもある。ビジネスにおいて新たな着想を得るにはよい戦略だ。しかし、それによって新たな自己(自己破壊)は生じにくいだろうと思う。私自身はジャンルの異なる本を数冊同時に読むことが多いが、これは「学ぶ」というよりは、思考を刺激して活性化することが楽しいからだと思う。ただ、能面の写真集と『ご冗談でしょう、ファインマンさん』を同時に読んでいて、それらが自分の中でなんらかのつながりを生んだときにはとても大きな快感が得られた。
 ここで問題になるのは、つながりを切断することはある程度意識的に行えるのだが、新たなつながりを作ることについては、偶発的な要因が大いに関係するということだ。つまり、選択的に切断はできるが、意図したとおりにつながりをつくることは難しい。新たなことを学ぶと未知の領域に入るのだから、その前に立てた予定通りに進むはずはないのだ。再び人間関係で考えてみると、意図的にだれかとのつながりを切ることはできる。そして、新たな人とつながりをつくることも意図的にできなくはないが、それがどういうつながりになるかは予測できないということだ。ましてや、偶発的に出会う新たな人とのつながりの先行きを、自分の意志であらかじめ決定するなどということは不可能だ。
 ここまで、人間関係を例に挙げてきたが、人間関係を主題にしているわけではない。ここまでの内容を整理してみる。まず、学ぶためには、対象に出会う必要がある。出会いというのはいわば中動態的なことで、新たなものに主体的に出会うことはできない。出会いは偶発的なものである。しかし、出会うためには能動的に自分の世界から一歩外に踏み出してみなければならない。自分の世界から踏み出してみる、予期せぬ対象に出会う、対象に魅せられ、それに没頭し一時的に視野狭窄になる、するとこれまでの自分の世界から引き離されることになる。そこで、あらたなことを学び取り、自分も予期せぬ形で変化してしまい、これまでの自分(環境とのつながりのいくつか)が破壊される。主体的、選択的に環境とのつながりを切断することはある程度可能だが、その次の段階でどういうつながりが生じることになるか、は予測しがたい。
 学び続けることとは、自己を破壊し、偶有性の中に積極的に身を投じ続けることだとも言えるだろう。これは恐ろしいことに見えるかもしれない。しかし、そこにこそ喜びがある。決まりきったレールの上を段階的に進んでいこうとしたり(そうしようとしてもそうならないものなのだし、そこにも必ず偶有性が関与することになる。また今の時代には既定のレールなどないと考えた方がいい)、既存のつながりを固定的に維持しようとしたりする(これも自分を閉塞へと追い込むだけだ)という姿勢では生のダイナミズムを享楽することはできないだろう。「~歳までに学んでおくべきこと」などというのがあまりにも人生をバカにしているフレーズだと思う。先にあげた『本は10冊同時に読め!』では、「ムダを排除し、将来だけを見つめて最短距離を走り抜けるのでは、周りにある多くのチャンスを逃しかねない。何より、そんな人生はつまらないではないか」と書いてある。生まれてしまった以上、人生を楽しみたいものだ。
 ここまで、学ぶことの必要性についてずいぶん書いてきたが、実は学ぶことは楽しい、というのが出発点だ。偶然出会う対象に一時的に没入してしまう(何かにハマる)ことは快楽を伴うものであり、世界の豊かさを実感できることになる。「自分とは~だ」という思いに固執せず、偶有性を受け入れ、予定調和に回収されてしまわないからこそ、自分は予期せぬ新たな自分になりつづける。そうであってこそ、自分だけの生を、生のダイナミズムを享楽できるのだ。
 最後に、フランスの哲学者ジャック・デリダの言葉を引用してしめくくることにする。非常に解釈の難しい言葉だが、それぞれが自分なりに解釈してほしい。(それが学びの出発点でもある)
「あなたでも私でもいい、誰かが進み出て次のように言う。私は生きることを学びたい=教えたい、終に、と。
 ああ、終に。でもどうして?」
 (『マルクスの亡霊たち』増田一夫訳・藤原書店)

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